〜地元探索シリーズ 兵庫の街道〜 有馬街道ほか
〜地元探索シリーズ〜 兵庫の街道 有馬街道ほか


    わたしが住んでいる阪神間には、有馬道あるいは有馬街道と呼ばれる道がいくつか存在する。
一番良く知られているのが、JR神戸駅・高速神戸駅付近から北へ向かって伸びている国道428号線から、神戸市北区箕谷で県道神戸三田線につながるルート、 明治7年(1874年)に、「天王谷越え」と呼ばれていた山道を、有馬郡役所があった三田まで整備した道。

    それと、今ではあまり知られていないが、尼崎の神崎から伊丹、宝塚、船坂を経由する有馬道(大坂街道)、これが実は徳川幕府が正規の街道としたのであった。 ルートが2つあって、神崎から北上し、藻川沿いに猪名寺・伊丹に至る本道と、次屋・下坂部・久々知・上坂部・塚口を通って昆陽(伊丹市) に至り宝塚市内「姥ヶ茶屋の道標」で本道と合流する間道があった。有馬道は豊臣秀吉も大坂から有馬大茶会へ赴くために通ったという。 大坂街道とも云われるのは、大阪高麗橋が起点の中国街道と神崎でつながり、大坂方面から湯治のため多くの旅人が通ったものと思われる。

    あと六甲山に登るハイカーたちによく知られている江戸初期からある東六甲最古の山越え登山道である魚屋道
(森稲荷神社から山に登り、蛙岩、山の神、風吹岩、東お多福山、本庄橋跡、一軒茶屋、射場山山腹、有馬) 大正時代まで深江浜から有馬の温泉旅館に鮮魚を卸すため魚を運んだ道であった。 魚屋道は、幕府公認のルートでなく、人々は遠回りの正規ルートを嫌ってこの道を「抜け荷の道」として利用したので 街道沿いの西宮や生瀬などの宿場の商人は通行禁止を大阪奉行所へ訴え、しばしば紛争が生じたという。 1806年(文化3年)灘本庄、有馬の人たちがこっそり道の大修理を行ったという。

    魚崎から住吉川沿いに山を登っていく住吉道(白鶴美術館前〜五助堰堤〜本庄橋跡以北魚屋道と同じ)である。
灘と有馬を結ぶ道としては、魚屋道が一般に利用されていたが、明治7年、東京−神戸間に鉄道が開通し住吉駅が出来てから有馬への道としてこの住吉道が脚光を浴びた。 しかし、明治40年に阪鶴鉄道(今の国鉄福知山線)が開通してからは三田駅が有馬の表玄関となり、住吉道は衰退した。なおJR住吉駅北側から山手幹線までの坂道に 有馬道商店街がある。

湯の山街道
    「湯山(ゆのやま)」とは有馬温泉の別名で、有馬温泉の場所が摂津国有馬郡湯山村であったことに由来する。 三木より有馬(旧称湯の山)に通じる街道を湯の山街道と呼び、その距離は七里。 この道は元々西国道の一部であり、三木より四方に分岐するが、主道は姫路街道に繋がっていた。姫路 - 有馬温泉間も「有馬街道」もしくは「湯山街道」と呼ばれていた。 この街道には大きな川越えの難儀も無く、確実に歩める道で、長い道中の憩いの場として有馬入湯が有り、山を下れば小浜宿経由で京都、大坂に通じていた。 16世紀に羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、別所長治との戦い(三木合戦)の際に、三木を拠点に2年に及ぶ作戦行動を起こし、有馬温泉と何度も往来、 戦による負傷者の湯治のためにもしばしば利用された道で、そのときに道路整備され、湯の山街道と命名されたという。 江戸時代に至っては、参勤交代にも利用され、有馬温泉への湯治客の利用も多かった。


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加藤文太郎の道(兵庫県縦断 神戸和田岬〜浜坂)



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