有馬街道 神崎〜小浜宿
有馬街道 神崎〜小浜宿 


赤いラインが有馬街道本道のルートですが、歩行ルートは青いライン。



2020年1月5日(日)、長かった正月休みも今日で終わり。家に居るよりは外に出て気分を改める意味もあって、年初の街道を歩く。
左は神崎橋西詰めの道路下あたり、ここでは神崎一心の戦いがあった。吉川英治の新太平記を読んだが、覚えていない。
鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇であったが、立役者であった武士への恩賞が無かったことから、足利尊氏は天皇に反逆して鎌倉へ。
天皇の命を受けた新田義貞は、尊氏を追討、しかし尊氏の反撃に遭い、京都へ敗走。京の都で再び激戦、今度は尊氏が敗走、
山陰丹波の地を迂回して、兵庫に陣を進めた。新田軍と打出の辺りで決戦の運びとなる。楠木正成が遅ればせながら参加、
ここ神崎のあたりから神出鬼没、一心をこめた戦法で圧勝。尊氏は九州へ敗走することになる。



左は神崎川岸にあった金毘羅さんの石灯籠。金毘羅さんは海上守護神で早くから船乗りらの信仰を集め、とくに室町から江戸時代に
かけて盛んとなった。神崎の津は都から西海へ行き来する舟と人々で賑わい、航海の安全を祈念したという。
この灯籠は灯台の役割でもあった。昔は着船場に近い堤防上にあったが、堤防工事の際、ここに移設された。



別々の川であった神崎川と淀川が平安時代の延暦4年(785)に結ばれ、瀬戸内海方面から京に至る船泊まりが神崎にできた。
河口の港町として繁栄し、遊女らが多く集まってきた。都の人々からも「天下第一の楽地」と呼ばれ、遊女たちは今様などの諸芸を
泊まり客に披露し、宴会に興じる人たちで賑わっていた。この塚は鎌倉時代の1207年、法然が讃岐に配流の途中、神崎の遊女
5人が法然の話を聞いて、身の罪業を恥じて神崎川に投身。法然は讃岐からの帰途、この地の釈迦堂で5人の供養をしたという。
もとダイセル化学の敷地内にあり、一時期、溝にかかる小橋として使用されていた。明治2年に村人が発見し修復したという。
実は以前に中国街道を歩いたときに、尼崎の寺町のお寺でも遊女塚を目にしている。→参照
右:バス停にも遊女塚の名前がついている。





今回は、有馬街道本道を行かずに、近松公園に寄るために間道方面へ。コストコから名神高速を北へくぐり、西へ。



路地を北上していくと、下町らしく塀に白茶の猫がいた。うちの飼い猫によく似ている。



近松公園の南側に有馬道の石碑があった。有馬道は、神崎の宿場町を起点とし次屋、下坂部、久々知を通り、昆陽、小浜から有馬へ続く。
太閤秀吉が有馬大茶会に行くために通った道でもある。江戸時代には近松門左衛門をはじめ多くの人たちがこの道を通り、久々知妙見宮
(広済寺)を訪れたと石碑にある。上記の有馬道の経路は本道でなく、間道である。昆陽は西国街道の宿場でもあった。



近松門左衛門は福井越前藩士の次男として生まれる。父が仕官を辞めるに伴い京都へ上り、公卿に仕える。やがて浄瑠璃、
歌舞伎役者として活躍、竹本義太夫などに浄瑠璃を、また坂田藤十郎に歌舞伎狂言を提供したが、宝永3年(1706)以降は大阪に移住して
もっぱら竹本義太夫のために浄瑠璃を製作し、尼崎にも来遊した。享保9年(1724)天満にて没し、ここ尼崎の広済寺、谷町の法妙寺
に葬られた。代表作は「曽根崎心中」、「冥途の飛脚」、「国性爺合戦」など。日本最高の劇詩人といわれている。
そうか、単に近松は尼崎によく遊びに来ていただけのことなんか! 右の地図は有馬道の間道を示したもの(赤いライン)





さてわれわれは間道を離れて、有馬街道の本道に向かうべく、北上し、阪急神戸線を越える。右は昔雇用促進住宅だった巨大な賃貸マンション。
あまりの大きさにびっくりした。320戸もあるんだって。1976年建築で築44年。





食満(けま)で本道と合流して山陽新幹線の下をくぐる。猪名寺の交差点で右手の細い路地を北上する。
この猪名寺周辺の猪名川流域は、古くから猪名野または稲野と呼ばれた地域で、新羅王から船造りの技術者が派遣され住み着いたとのこと。
猪名寺は織田信長勢による荒木村重の居城「在岡城(有岡城)」攻略の時焼失したものと考えられ、廃寺となっている。



街道らしい曲がり、道は東洋リノリウムの敷地に面している。



東洋リノリウムの本社の壁に「稲名の笹原旧跡」の説明書きがあった。
小倉百人一首に「有馬山 いなの笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする」と紹介されている。
昔はここはあたり一面笹原がひろがり、有馬山から吹き降ろす風で笹がそよそよと音をたてる、そうよ、あなたのことは
忘れたりするものですか。」作者は紫式部の娘の大弐三位。 六甲おろしでなくて、有馬おろしなんや。



左:JR福知山線の踏切を渡ったところの曲がりに旧大坂道のま新しい表示板があった。



有馬道ともいえば、大坂道とも言うようだ。



産業道路を横断して、北にのびる細い路地へ。



右:昼ご飯を食べに左へ行くが、まっすぐ(赤いラインが街道筋)に行くべきであったと今更思う。、



かつ丼に、ざるそば。食べ過ぎてしもた。





伊丹ホールの横を通る(青いルート)とおもしろくないが・・・



赤いルートを辿ると、街道筋は稲名野神社の正面にあたって、風情がある。



稲名野神社から北西方向に分岐する道へ。シトロエン2CV6を見かける。2CV6については→参照





以前に歩いた西国街道と交差するところに来た。西国街道→参照



国道171号を横断する。相方のI君によると、昔は柵(赤い囲み)が無かったのでここを横断する車が多かったそうで、
よく事故が起こっていたそうである。



瑞ケ池のそばをかすめる。宝塚の山々が見えてきた。伊丹から宝塚市内に入ったようでゴールも近い。





姥ケ茶屋というのが昔あったのか、ここの三叉路に重要な道標があった。



下の池公園に街道を示す地図があった。



右:国道176号線を横断。



中国自動車道をくぐる。



再度、中国自動車道をくぐると・・・ゴールの小浜宿東門に到着。



宝塚といえば歌劇団が全国的に有名だが、小浜宿の存在は地元の人でもあまり知られていない。



是従右昆陽寺行き、きやうき与尼崎江 この道標は平成8年当時の道路工事で見つかったもので江戸中期のもので
右に行くと昆陽寺へ、伊丹を経て尼崎につながることを示している。



なんと小浜宿は、有馬街道、京伏見街道、西宮街道の街道の拠点となっていたのであった。今回はここまで。



京伏見街道
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