中国街道 前半 西宮から神崎川まで
中国街道 前半 西宮から神崎川まで





2018年11月4日(日)旧山陽道(西国街道)を歩き終え、ふたたびそのスタート地点に戻ってきた。やはり広島、山口、九州とも
なると旅費がかさみ、また日が暮れるのも早いので、これからはしばらく近場の街道を歩くことになったわけだ。中国街道は、
大阪から西宮をつなぐ街道で、秀吉の中国返しは岡山から姫路そして西宮までは西国街道を通ったわけ
だが、西宮から大阪に帰ってきたのはこの中国街道であった。また江戸時代では大阪から中国地方への物流の幹線道路であった。
近くに与古道公園があり、この地名からして古道があったことが推察され、またスタート地点(右写真)のところに「旧国道」
という道の標識がある。この尼崎まで続く「旧国道」という名称は私は、子供のころから気になっていたわけである。





すぐに小さな消防署があり、ここの前に狐の神さんが鎮座してあること自体、この道が古い街道だったことを物語っている。
右は、右手の青い線が中国街道(こちらの方が本筋と言われているが)、われわれは赤い線の旧国道を歩き、今津の手前で合流する。



フジッコの看板、これおそらくこの9月4日の台風21号の被害であろう。この日14時ころ、猛烈な勢いのまま神戸市付近に
上陸。西宮は台風の右側(東側)にあり、大きな被害をもたらした。右は阪急今津線の今津駅。私が大学に入学した1984年に
それまで阪急今津から宝塚まで直通だったのだが、西宮北口駅のダイヤモンドクロスを無くすことで南北が分断。そして
かつては阪神今津駅地上駅構内まで乗り入れていた阪急今津線だが、1993年(平成5年)に現位置の1階に移設され、その後、
阪急今津駅は震災後の1995年(平成7年)12月に高架化された。昔は、阪神今津駅北側でほぼ直角の単線急カーブとなりながら
阪神線とほぼ平行になっていた。その昔、昭和24年に阪急今津線暴走事故があり、久寿川駅のホームに激突してようやく止まったという。



右は我が家のバルコニーから撮ったものだが、このときあちこち電線がバチバチ切れて、午後2時30ごろ停電、約24時間続いた。
記録的な高潮となり、神戸(最高潮位233センチ)では1961年の第2室戸台風時の記録を超えた。



(左)阪神今津駅は2001年(平成13年)に高架化されている。わたしが子供のころ、今津駅周辺は本当に街自体が昭和30年代風情
というか、他のエリアより10年以上は確実に遅れていたのを覚えている。日活ポルノ劇場もあった。わが暗い高校時代・・・





場所は阪神甲子園駅の南北を走る甲子園筋と旧国道との交差点でI君がここに親戚が住んでいたということで家を探していたところ、
自転車に乗って横断歩道を渡るところでおじいさんが転倒、自力で起き上がれず救急車を呼ぶことに。このとき、通り掛かりのおばさんも
一緒にこのおじいさんの面倒を看ていてくれたわけだが、このときわしはやっぱり女性の方がこういうことに向いているなぁと思った。
どうも男性では頼りないと、この男性とは自分のことなんだが。しかしこれで街道歩きで救急車を呼んだのも2回目。
右は民家をカフェにした喫茶ブラジル、私が大学生のときにはすでにあったから30年以上もやっている。懐かしい。



鳴尾の岡太神社。西宮のえびす神は最初、この鳴尾で祀っていたという言い伝えがあり、ここではそのえびす神が高潮や洪水を未然に
防いで五穀豊穣をもたらす猪(静止)打神事をされると伝えられる。イノシシはえびす神の使いといわれ、この像が対であった。



そして境内には平重盛の供養塔があった。保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って出世
し、清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。
六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣ともいわれた。鳴尾には小松という町名があるが、これが由来かな。
「これより東尼崎領、これより西尼崎領他領入組」 とある。



武庫川を渡る。昔は赤い線あたりに渡しがあった。これより西宮市から尼崎市に入る。



白鷺のいる武庫川を渡った尼崎側に「雉が坂」があり、次のような伝説が残っている。
天正10年(1582年)、中国返しの秀吉は急ぎ、東に引き返すことになるのだが、明智光秀側はこの武庫川近くで秀吉を
討ちとろうと待ち討ちの陣を構えていた。秀吉はさきほどの岡太神社付近に到着すると一農夫の注進があった。武庫川を見ると
まだ夜明けに間があるのに対岸の竹やぶから、あわただしく雉が飛び立つのが見え、異常を悟った一行は、西国街道(西昆屋方面)
に向かって進路を変え、背後から攻め勝ったとのこと。その後太閤となった秀吉は農夫の功績を称えようと探したが会えず、
この付近の雉の捕獲を禁じ、土地の人々に田と池を与えたといわれている。





「旧国道」から「琴浦通り」になっている。またマンホールが現在再建工事中の尼崎城になっている。



左が琴浦神社。昔は塩水を運んで、塩を焼かせたという。尼崎市の東部に潮江という地区があり、
ここにも同様な伝承があるという。海に近かったようで、ここからの景色が他所より優れているので異浦とも呼ばれている。



道意線を過ぎたところの歩道に中国街道のカラータイルが施されていた。蓬川を渡る。



出屋敷線を突っ切ったところに、ハマモトサイクル(昔、ここで自転車を買っていた)のところで、中国街道は右(南)に曲がる。



子供ころ、よくここまで買い物にきたものだが、まったくこの古い立派な道標に気が付くことはなかった。





懐かしい喫茶店や仏壇屋もかなり昔に閉店している。わたしが子供のころ(昭和50年ごろ)はものすごく繁盛していたものだ。



阪神電車の高架を抜け、43号線の近くまで南下して、東に行く。街道がまっすぐになっていないのは城下町である所以である。



国道43号線沿いにある貴布祢神社。山城国の貴船神社に「昔、尊い神様が瀬戸内から尼崎に上陸され、京都の貴布祢川の
川上に鎮まられた。」という伝承があり、ここの神社の旧地である長洲がこれに当たると考えられ、古来天変地異を防ぐ
御神徳があるとされる(阪神大震災では鳥居が倒壊)。江戸時代にこの地に移され、尼崎藩の祈願所であった。
なぜか関西学院大学のアメフト部の記念植樹があったのだが、ここの宮司がOBとのことです。



中国街道はこのまま43沿いを東に行くが、おもしろくないので神社より北側の通りの寺町を歩くことにした。
如来院(浄土宗)の前に法然上人ゆかりの神崎遊女の石碑があった。昔、神崎川のほとりにあったが洪水で釈迦堂が流出、それで
大物からこの地に移転したとのこと。鎌倉時代の1207年法然上人が讃岐国に配流の途中、神崎の遊女5人が上人の法話を聞いて、
身の罪業を恥じ神崎川に投身し、法然は讃岐からの帰途この地の釈迦堂で5人の供養をしたという伝承がある。
もとダイセル(株)神崎工場敷地内にあり、一時期溝にかかる小橋として使用され、明治2年(1869)に村民が発見し修復。
碑石表面には「南無阿弥陀仏」の名号と、その両側には「阿弥陀仏という女の塚の極楽ハ発心報土のうちの春けき」と刻まれ、
側面には元禄5年(1692)6月の年紀銘、裏面には遊女5人の名(吾妻・宮城・刈藻・小倉・大仁)が刻まれている。



寺町の名物のたこやき屋さん。7個100円(ただし7個入りは小学生にしか売りません)とあり。14個200円は
大人でも買える。右は法園寺。佐々成政の墓碑がある。佐々は織田信長に仕え、猛将として名をはせ、その功により越中守に
任じられる。本能寺の変後、織田信雄に仕え、小牧長久手の戦いに参戦するが破れ、のち豊臣秀吉の部下となる。
肥後守在任中、領地内で反乱が起こり、その責で幽閉され、1588年に切腹を命ぜられる。恨みの秀吉のいる大阪城の
方向にみずからの臓腑を投げつけたと伝えられる。



寺町から庄下川を渡り、再建工事中の尼崎城を見ようとしたが、図書館で見えない。





川沿いに北上すると、姿を現した。真新しい窓ガラスがちょっと残念ではある。しかしよく再建したものだ。
2015年、尼崎の家電販売店の旧ミドリ電化(現エディオン)を創業した安保詮(あぼ・あきら)氏が天守の復元を尼崎市に
打診。なんと建設費用として私財10億円を寄付。尼崎城は1617年、江戸幕府の命令で、近江の膳所藩から尼崎藩へ
と領地替えをした譜代大名、戸田氏鉄(うじかね)により築かれた。「大坂の西の守り」を担った名城だが、1873(明治6)
年の廃城令を受けて天守や櫓(やぐら)、石垣などが取り壊され、全国的にも珍しく地上から完全に姿を消した“幻の城”と
いわれている。堀も完全に埋められ、現在はまったく城下町の風情はまったく無い。2019年3月29日にオープンする。



写真は寺町付近にある尼信博物館に展示してあったもの。左は歌川貞秀作「西国名所之内二 尼ケ崎大物の湊」。
戸田氏のあと、尼崎藩4万石の藩主となったのは徳川家と関係の深い松平家で明治維新まで7代続く。
この博物館には当初の城建設時の設計図が展示してあって、それがあったものだから復元工事ができたとのこと。
ここの博物館の人曰く、「城の資料の保管は日本一だが、逆に遺構はまったく無い」とのことでした。
わたしはここの展示物をみてふと先ほど歩いてきた「出屋敷」という地名の由来にひらめいた。尼崎城の西側は武家屋敷街
であり、その西隣に川をはさんで出屋敷という地名がある。まさに武家屋敷の下層の人々が住むエリアだったわけである。
わたしが子供のころの阪神出屋敷駅は、酔っ払いがホームのベンチでよく寝転がっていたものだ。
あの吉本の岡八郎は出屋敷の出身であり、よく花紀京との漫才で「尼の出屋敷大学出身」だとよく言っていた。
尼崎市立地域研究史料館のホームページはとても面白い。尼崎藩の大名行列のことが載っている。→尼崎藩の大名行列



阪神電鉄の赤レンガの元発電所(明治37年1904年竣工)の前を通る。右は福知山線最初の開業区間でもあった 塚口駅 - 尼崎港駅間の通称尼崎港線の廃線跡。旅客営業を1981年に廃止した後、1984年に完全に廃止された。



大物(だいもつ)まで来た。この神社は大物主神社(おおものぬし)という。平清盛が芸州厳島神社参拝にこの神社に
祭神を合祀したとか、また鎌倉時代のはじめ、頼朝から追討された源義経主従が大物の浦から船出した際に神社隣に宿
をとったが、船出後に暴風雨に遭い、押し戻されて奥州藤原氏を頼っていったという。





北上して、2号線沿いのデニーズで昼飯をとる。ガストに比べ値段が高いせいか休日でもあまり混んでいない。
カルボナーラ900円、味は間違いなく美味い。だけど濃厚なだけに後半飽きてくる。カルボナーラは少量でよい。



2号線を越えて北上し、右に曲がると街道らしくなってきた。



長洲公園のところに古い道標があった。ここで右(南)に曲がる。城下町の唯一の名残りである。



右尼崎 大阪/左伊丹、有馬 右大坂、京



大門厳島神社であるが、広島の厳島神社とは関係がないようだ。
ここらへんは長洲という町名だが、長洲というのはここが長い白砂の洲浜だったから。



ここらへんは道がジグザグになっている。工業高校前を通る。





路上の物干しなど昭和30〜40年代のまま、もう21世紀なんだが。尼崎は高齢者の街である。



左の前方の杜は皇大(こうたい)神社、天正七年、織田信長が伊丹城主荒木村重を攻略した際、城と共に城の
守護神である社も焼失した。のちの元禄十三年、村人達が合議の上代官の助力を得て社殿を造営。



JR東海道線を越えたら、スーパー銭湯の尼湯があるが、そこを過ぎて右(東)折する。
すると右手にあのベルギーワッフルのマネケンの尼崎工場がある。会社の名前はローゼン製菓という。
創業者がベルギーで本場のワッフルに出会い、1986年梅田に1号店を出したのが始まり。




ようやく尼崎の西端である神崎川まで来た。
神崎の渡しは仮橋がなく、旅人は1人につき40文、増水時は増銭24文を払って渡し船に乗ったとのことです。
神崎駅はおもに商人荷物を扱う駅所、また近隣の年貢米の津出しや伊丹で買い入れた酒造米の受け入れ口と
して繁栄した。尼崎市立地域研究史料館のホームページより引用。中世には神崎遊女(既出)がいたという
ことは相当の賑わいがあり、そういう宿屋があったわけである。本当は橋の北側まで行くのだが、省略した。

後半につづく




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