紀州街道〜熊野街道〜熊野古道を歩く
紀州街道〜熊野街道〜熊野古道を歩く



   2019年は紀州街道からスタート。高麗橋を起点に、途中熊野街道に合流し、終点は和歌山城下。さらにそこから海南方面に下って、 海南から熊野街道、そして紀伊田辺からは熊野古道を歩き、熊野三山を目指す。さらにできれば、新宮から紀伊半島を廻って、最終目的地・伊勢神宮まで辿り着く という壮大な計画である。
   紀州街道は全長65キロ。古くから沿岸の集落を結ぶ生活の道として利用され、江戸時代には紀州藩の参勤交代路としても発展。
   古代から中世にかけて、大坂と紀州を結ぶ要路は、熊野三山への参詣路として賑わった熊野街道であった。近世初頭、豊臣秀吉によって
大坂城が築かれたため、その城下と商都堺を結んで、熊野街道の西側を走っていた「堺筋」が整備され、紀州街道の前身となった。この「堺筋」は現在の堺筋とは異なり、 国道26号線にほぼ重なる道で、江戸時代には旅籠が軒を連ねた今宮橋が起点とされる。そこから南には古来、和歌の神として崇拝された住吉大社がある。そして 街道は中世に日本屈指の商業都市として繁栄した港町堺を経て、岸和田藩岡部氏の城下町岸和田から貝塚へ。近世初頭の一時期、本願寺が置かれた貝塚は、泉南の文化・ 経済の中心地であった。やがて街道は瓦村(泉佐野市)から熊野街道と同じ道筋を辿り、山中宿を経て紀ノ川を渡って、和歌山に至る。





   熊野街道は、熊野三山(本宮町の熊野本宮大社、新宮町の熊野速玉大社、那智勝浦町の熊野那智大社)への参詣道であり、この道が確立したのは 平安時代とされる。この時代、熊野古来の山岳修験道に仏教の浄土信仰や密教が重なり、神仏が習合した熊野は極楽浄土への入り口であり、即身成仏の地であると みなされていた。そして平安後期、上皇たちの熊野詣が始まる。主な経路は京から船に乗り、大阪天満橋に上陸、ここから南下して四天王寺、住吉大社、堺、岸和田を 経て、紀ノ川を渡り、そこから紀伊半島の西海岸を南下し、紀伊田辺から東に向かう中辺路を通るルートである。ほかにもいろいろなルートがある。





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