8 矢掛宿から福山駅まで
8 矢掛宿から福山駅まで





2018年3月11日(日)、早朝、6時40分である。宿場町の本陣で写真を撮るのがこの旅の約束事になっている。
矢掛宿は山陽道に沿って東西800mの街並みを形成し、北側に95軒、南側に102軒の地子(宅地税)を免除された
屋敷があった。屋敷は京都と同じく”うなぎの寝床”と呼ばれる短冊形の地割りになっている。なぜ免除されていたかというと
伝馬役(宿場に備えた人と馬を無償または格安の賃金で幕府御用の荷物、手紙及び幕府の役人や参勤交代の大名を次の宿場に
継ぎ送る役割)を担い、この任務に対する補償として、免除されていたということです。



”本陣通り”というバス停があったが、過去の遺物でしょう。



さて矢掛宿は西国街道で最も昔の街並みが保存され、本陣・脇本陣を見学できるということなんですが、なにせ午前9時から
のオープンであり、宿で待っていては時間がもったいないので、井原まで歩いて、そこから井原鉄道に乗って矢掛に帰って
きて、見学しようという作戦を昨夜の夕食時にずっと練っていたわけです。





午前7時、目星をつけていたセブンイレブンで朝食をとった。なんとかイートイン席があって助かった。外は寒くて耐えられない。



井原まで11キロ。約2時間ちょいかかる予定だが。右は田舎で不可思議な井原鉄道の高架。



「史蹟旧山陽道備中國浅海村才の前下座所跡」村人がここで下座して参勤交代を送迎したのでしょうか。




ここは矢掛・七日市間の「間の宿」である堀越宿。当時78軒の屋敷があったという。




「北条五代を大河ドラマに」、「早雲の里 荏原」関東のイメージの北条氏が、なぬ?
関東制覇の魁、戦国の名将といわれる北条早雲(伊勢盛時)は、室町幕府の政所執事を務めた伊勢盛定(備中荏原郷
領した高越山城主)の子で1456年、荏原庄に生まれたとのこと。早雲の姉・北川殿が、今川義忠の正室として
嫁いだが、1476年4月、今川義忠の突然の死により、家督争いとなり、北川殿は父・伊勢盛定を頼った。このこと
が伊勢盛時(早雲)と、今川家との絆を強め、後の伊勢盛時の関東進出と後北条氏誕生の契機になった。



この一里塚には、1592年豊臣秀吉が設置とあった。



「道祖煎餅」お店も閉まっており、もうどこにも売っていないようです。




486号線から旧道に入り、古い街並みが現れた。中堀城跡、養蚕家の相田嘉三郎旧宅・・・



歩けども歩けども七日市にはなかなか到着しない。ここで当初予定していた井原発の電車を1本、遅らせることにした。



橋を渡ったところが、七日市宿であった。



9時50分に七日市宿の本陣跡地に到着。矢掛を出て、3時間もかかっている。



七日市から井原駅まではすぐだった。右の写真:ここに立って扇を見ると、那須与一が扇の的を射たのがわかると
いう趣向になっている。平家物語の名場面、屋島の合戦で見事、扇の的を射貫いた下野国(栃木県)の武将 那須与一
はその恩賞として全国5か所の荘園の地頭職を与えられ、そのうちの一つが備中荏原荘、現在の井原市東南部一帯である。



矢掛まで3駅しかないのに、490円もする。右は森友問題で財務省が決裁文書の改ざんを認めたニュースが一面。



駅の構内で、ベトナムやインドネシア、中国の留学生の日本語スピーチ大会があった。やっぱり日本は寒いということ
でした。また井原はデニムが特産らしい。井原は、デニム生地の工場、ジーンズの縫製・加工工場などが集まる産地であり、
かつては現在よりさらに多くの工場があり、1970年ごろにはジーンズの国内生産の約70%が井原で作られていたが、
現在は、縫製・加工よりも「デニム生地の産地」になっている。岡山には井原デニム以外に、倉敷デニム・児島デニム
がある。ここで売られているジーンズの値札を見ますと、19,000円と結構なものでした。




どうせ赤字の旧国鉄の路線を地元が第3セクターで引き継いでいるものだと思ったら、平成11年(1999年)に開業
したとな。総社駅から神辺駅まで41.7キロ。神辺側では一部の列車がJR福塩線に乗り入れ、福山駅まで直通運転される。



さてさて、再び矢掛に戻ってきた。毎週日曜日は市が開かれてとても賑やかである。さて本陣を見学することにする。



これは○○大名様御一行様とよく旅館の玄関前に立てて置く宿札である。当時の主人は看板の裏にその時の様子を
メモ書きをしていたとのことです。本陣(石井家)は江戸時代初めから本陣職を務め、元禄年間から酒造業を営んでいた。



左はここに泊まった大名からの頂物である。矢掛本陣は長崎奉行や巡検使などの役人のほか、西中国(萩、石見、安芸)、
九州(唐津、肥前、筑前、筑後、薩摩)などの西国大名が主に宿泊したという。右は、上段の間であり、8畳間。



左の欄間は、桃山文化にみられる「葡萄とリス」が彫られている。右の金のふすまは江戸時代後期のもので、綿の花と
桔梗の絵が描かれている。昔は綿の産地であり、ここに染料の藍が伝わり、井原デニムの原点である。



右は広大な酒蔵である。ここにいろいろ展示されていた。例えば高札。「キリスト教は以前から禁止されている。だから
不審な者がいたら、訴えて出なさい。宣教師を訴えた者に銀500枚、修道士なら300枚、を褒美として下される。」



近年の研究で、13代将軍徳川家定の正室、天璋院篤姫や萩藩13代藩主の毛利敬親らがこの本陣を利用したことが判明。



次は脇本陣の見学である。ここは上に上がることができない。高草家の先祖は、応仁の乱からここに逃げてきたと聞いたが。



ここの改築費は確か2億5千万ほどかかったとか、本陣の方は5億円。



時間は知らぬ間に12時過ぎになり、矢掛駅発の列車の出発時刻は12時47分であり、あと40分くらいしかなくなり、
ランチタイムも危ぶまれたが、古民家カフェで客引きしていたマダムが、5分でオムライス定食を作ってくださるとのこと
だったので入店、約束どおり5分で料理が出てきて、10分で食べて、さらに駅までの近道を案内していただいた。
お店の名前は、カフェと雑貨のお店『シーズ藤原家』です。ここはゆったりとリラックスできる素敵なカフェです。



井原鉄道はなぜ高架なのか。ネットで調べると以下のようなことであった。
井原鉄道は国鉄井原線として計画そのご国鉄路線としては頓挫したものの、地元の路線として第三セクター方式により
運営することで開業に至ったわけだが、それまでの国鉄や地方私鉄にありがちな曲線ばかりの路線で低速運行を余儀なくされる
ものではなく、まっすぐ線路を引いて高速運行を行うことで自家用車や「自転車」に対抗できる交通手段になるように建設され、
さらに、鉄道路線の建設の法律が、やむを得ない場合を除き道路との平面交差(つまり踏み切り)を設置してはならない、
としているために高架鉄道となっているということだそうです。それと日本建設鉄道建設公団が建設する鉄道は一般的に
ゴージャスらしいです。さて再び、井原駅から歩くことになります。
井原駅に着いたのが午前10時、今は午後1時ですから、3時間のロスタイムとなります。



さてこの辺りから、燈籠がやたら出現してくるようになった。




この辺り、古民家、神社の鳥居、燈籠と、旧街道の三拍子が揃っている。




旧山陽道では単調な旅に変化を付けるため、一里塚と共に大曲が付けられた。戦乱の世には東西へ走る敵の数を
調べるのに大変、都合がよく、また参勤交代の時には殿様が駕籠を止め、前後の行列を眺めては長い旅を続けたという。
こういった大曲も新しい町づくりによる土地区画整理事業で姿を消した。



さきほどいたシニアの団体さんは、クラブツーリズムが主催する街道歩きツアーの人たちでした。なんと、東京日本橋から
東海道を通って、京都から西国街道、そして旧山陽道で下関まで、そして長崎街道を経て、薩摩街道で鹿児島に至るそうだ。



七日市宿の次の高屋宿に入ってきたようだ。ここ高屋は子守歌の里と呼ばれている。というのも上野耐之の生地であるからで
上野は、音楽家になることを目指し上京し、昭和3年、恩師である作曲家の山田耕作に幼い頃母よりずっと聞かされていた
子守唄を披露したところ、山田耕作がとても感激し、編曲して「中国地方の子守唄」として発表した。



実は高屋宿の本陣場所がいまいちわからず、恐らくこの古い屋敷が多分、本陣だろうなとの想像です。あの団体さんが
後ろからやってくるまでに撮らなくてはと焦っていたわけです。結構、この紙を持って写真を撮るのは恥ずかしいわけです。



この石碑が、岡山県と広島県の境界なのでした。



猫も寒い冬が終わって、春が来て喜んでいるのか、街道の梅は満開でした。



上御領一里塚である。ここの説明書きには「一里塚の起源は中国にあるが、・・・一里は3.75キロ、・・・
江戸日本橋を起点とし、・・・旅人の里程、駕籠賃の目安あるいは休息所ともなり、・・・明治以降交通機関の
発達によりその必要性が失われ、次第にその面影も消えつつある。この一里塚は1633年(寛永10年)に築かれ
たものであり1932年(昭和7年)の9月の台風で倒されてしまったとのことである。」






燈籠が頻繁に現れる。よく見ると「琴平宮」と書いてある。そして「地神」の石碑も出現しはじめた。
「地神」とは、一般的には田畑や屋敷内の一隅などに祀られる神で、土地の神、屋敷の神とも言われる。

    

小山あるいは丘のうえに神社があるのか、急こう配の階段参道は驚いた。



この辺りは地震がこれまで無かったのだろう。絶妙のバランスで建っているように見える燈籠。右はものすごいお屋敷。



右は備後国分寺の参道である。国分寺は奈良時代に全国66か所建立された。




高屋川沿いの道を南下し、井原鉄道の高架をくぐる。飛び出すフォルクスワーゲンがあった。



坂本デニムは1892年(明治25年)創業の会社です。「藍にこだわり、藍に生きる」高級デニムです。
ややこしいですが、ジーンズとデニムとどう違うのか、ジーンズはデニム生地で出来ているということです。
この「デニム」の語源はフランス語の「serge de Nimes(セルジュ・ドゥ・ニーム)」であり、
「(フランスの)ニームの綾織り」といった意味の表現である。ニームの地のアンドレ一族がすぐれた綾織りの
布地を作っており、布地はしばしば産地の名で呼ぶ習慣があるので、この表現の「de Nimes(「ニームの」
「ニーム産」という意味の部分)」だけを残す形で短縮され、「denim」という表現が生まれた。
また、この「セルジュ・ドゥ・ニーム」と呼ばれる生地はイタリアのジェノヴァから各国に輸出されたので、
産地の「ジェノヴァ」を指す表現は、中世ラテン語では「Genua」と呼ばれ、当時のフランス語(中世フランス語)
では 「Gene(ジェーヌ)」であり、この中世フランス語「Gene」が英語に入り「jean」という表現が生まれた。
以上はウイキペディアより引用。





平野村往還絵図より。平野一里塚跡。



子供の頃、テレビでよくマンダムのコマーシャルやってたなぁ。
日本では、1970年に男性用化粧品メーカー「丹頂」の化粧品「マンダム」のテレビCMに出演し、一世を風靡した。
撮影費は2000万円、ブロンソンへのギャラは3万ドル(約1000万円)CMソングは「男の世界」原題は”LOVERS OF THE WORLD”
by Jerry Wallace →マンダムCM1970年



菅茶山(1748〜1827)は19歳の時、京都で朱子学を学ぶ。郷里の神辺で廉塾を開いた。
茶山が生まれ育った神辺は、山陽道の宿場町として栄えていたが、賭け事や飲酒などで荒れていた。学問を広める
ことで町を良くしようと考えた茶山は、京都の那波魯堂に朱子学を学び、和田東郭に古医方を学んだ。



茶山饅頭の谷口屋。試しに3個ほど買って、近くの神社で食べたが、抹茶の皮と白餡が絶妙な上品な味でした。



この地は山陽道の宿場驛の跡と云われ、また太閤秀吉が朝鮮の役よりの帰途、立ち寄った館の跡ということで
明治以降は、川北村役場が置かれた。左は創業1910年、天寶一は広島県備後に蔵を構える小さな酒蔵。



さてさて、大きく曲がりをつけたところが神辺本陣



見学は午前10時から午後4時まで。すでに4時10分でしたが、入ることができました。



江戸時代の神辺は備中高屋宿と備後今津宿の中間に位置する宿駅として栄え、本陣は三日市の尾道屋菅波家
(西本陣ー神辺本陣)と七日市の本荘屋菅波家(東本陣)が勤めていた。神辺本陣は代々酒造業を営み、
寛文年間(1661‐1669)筑前黒田家の本陣役を勤めたことに始まる。部屋数27、畳数1,100枚を使用し、
大名と付添い衆50〜70人の収容が可能であった。




神辺宿を出るとき、またも曲がりがつけられ、南へ下っていく。



福塩線と並行して走る国道313号線を歩くのだが、歩道が無くて非常に危険。今日一番の難所でした。





上の地図でいえば、橋南詰のところ。交通事故でぶつけて加害者が補償したので2本になったらしい。出雲大社道
というのはネットとかでは出てこないが、東城往来(新見市 - 福山市加茂町)のことかと思われる。国道182号と並行。



橋から見た福塩線(福山−三次市の塩駅)の線路。右はなぜこんなところにホロコースト(ナチスによる大虐殺)
記念館があるのだろうか。



トイレ休憩に利用したセブンイレブンのそばにあった。館長の大塚氏がアンネフランクの父であるオットーフランクに
偶然にイスラエルで会ったことから、ここに記念館を建てたそうだが。



さらに橋を渡り、車道の下にあった歩道を南下する。時刻はもう6時前で、ここから福山駅まで暗がりの中を歩いて
いくのも大変だろうから、この先コンビニエンスストアがあれば、そこからタクシーを呼ぶことを考えていた。



山陽自動車の高架下あたりまで来た。



なんと前方にタクシーが走っているのを発見、手を振りまくったら停まってくれた。福山駅までは10分程度で
午後6時40分到着。東海道新幹線が静岡−浜松間で停電が発生し、一時運転を見合わせているとのことで、
いまのところ30分の遅れが発生。われわれの乗るのは、午後8時17分だったので、どうなるのか。
とりあえず、福山駅の南の方の繁華街に出て、ビールと旨いものでも食べにいくことにしましょうか。



日曜日ということで、瀬戸内の海の幸を店は閉まっていたりで、結局、広島焼をメインに鉄板焼きの店に決定。




41キロ歩いたあとのビールはさすがに旨い。広島焼もビールと合って最高。



プロ野球開幕まであと3週間後。駅中のお店もカープ一色でした。



下りはまだ遅れていたが、上りはもう時間通りになっていた。こだまなので新神戸まで2時間もかかる。



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