9 浜松から掛川まで
9 浜松から掛川まで





2016年10月9日(日)雨の中、午前5時20分に自宅を出る。前回は6月19日だったから、約3か月ぶりの東海道である。
6時23分発のぞみ100号に乗る。このお弁当なんと、お茶付きで500円なんです。



名古屋で、ひかりに乗り換えて、7時45分頃浜松駅に到着。



浜松駅の新幹線コンコースには、スズキの車とカワイのグランドピアノが展示されていました。



ピアノは、勝手に弾いてもいいみたいです。雨模様ですが、駅前からスタートです。





駅前の交差点には、梅屋本陣跡(約600?、国学者賀茂真淵は梅屋家の婿養子)や佐藤本陣などがあり、
東海道の宿場町でもここ浜松は本陣が6軒、旅籠が94軒もあり、大きな宿場町でしたが、現在は何も残っていません。
右の建物は浜松市役所。



少し寄り道して、浜松城に向かいます。平成29年の大河ドラマは井伊直虎らしく、幟がはためいていました。女城主とありますが?
井伊谷城主である直盛の一人娘として誕生、直盛には男児がなく、従兄弟の直親を娘の許嫁として家督を継がせる予定でしたが、直親の
父親が今川義元に殺され、命を狙われた直親も信州に身を隠したことで、直親が死んだものと思い、直虎は出家。生涯独身であった。
直虎は直親と奥山因幡守の女との間にできた子である井伊直政を後見役として育てて、浜松城主である徳川家康に出仕し、万千代と改め
、のちの彦根藩の初代藩主となり徳川四天王となる。右は徳川家康の像。



ちょうど8時45分の開門と同時に浜松城を見学。城の北側(右の写真)にあの徳川家康の伊賀越えに並ぶ
人生最大の危機といわれた三方が原の戦いの舞台である三方ヶ原台地がある。徳川軍は武田軍になす術なく粉砕され、
日没までのわずか2時間ほどの戦闘で本陣までもが蹂躙された。



この浜松城公園にはリスがいました。城内は資料展示されており、三方が原の戦いや火縄銃、ジオラマ(右)などあり。赤線が東海道です。



さて、東海道に戻ります。高層ビルはアクトシティ浜松(アクトタワー地上45階建)である。外観は、音楽の町・浜松を意識して、
ハーモニカをモチーフにしている。右は旧笠井街道の標があり、これは現在の県道45号線(天竜浜松線)となっており、
浜松から北の笠井方面につながる街道です。



左は江戸時代から続く萬屋蒟蒻店です。



松並木が出てきましたので、ここらで広重の浜松宿の地点とします。



浜松で旧東海道を偲ばせるものは、この松並木ぐらいしかないと思われます。



左は国道1号線の高架をくぐるところです。しばらくしてうなぎの中川屋の看板が出てきたところで旧道に入ります。



今日は秋祭りのようです。すぐに金原明善の生家がありました。
金原明善は度々大洪水を引き起こしていた天竜川の治水事業に生涯をかけて取り組んだ地元の名士です。



1868年(慶応4年)5月、天竜川は大雨により堤防が決壊。浜松及び磐田に大被害をもたらした。明善が19歳(1850年)の時に発生した
洪水は、一瞬に安間村を沈めてしまった。それは明善にとって一生忘れられない災害であった。彼は明治政府に直訴するも、政府は
ここだけに限るわけにいかないから却下、しかしその後、全財産献納の覚悟を決めた明善は内務卿大久保利通に築堤工事実現の為に謁見し、
念願の天竜川治水事業が実現した。



ここに明治42年から沿線住民の足として軽便鉄道が走っていました。浜松〜中野町間の11駅間で、細長い煙突を持った
ミニSLで客車1両をけん引して民家にスレスレで走っていましたが、昭和12年に配線となりました。



時刻はちょうど午前11時。旧東海道沿いにある創業135年の老舗であるうなぎの名店、中川屋に開店と同時に入りました。



うな茶漬け、確か3,400円ぐらいだったかな。ここは創業135年、天竜川の清冽な水に3、4日活かして、臭みを抜き、
戦争中も火を絶やさず守り続けた秘伝のタレをまぶして、焼き上げるそうです。御馳走様でした。



うなぎ屋の近くの旧東海道沿いに、浜松餃子のかめというお店がありました。よく見ると、看板ネコがいらっしゃいました。



いよいよ天竜川を渡ることになります。



以前は天竜川を横断するためには路側帯を通行するしかなく、非常に危険な状態であったそうである。拡幅工事が平成7年から
開始され、平成20年に完成し、現在ではゆったりした歩道(自転車歩行者道)を歩くことができる。





橋を渡り切り、南に折れたところを、広重の見付宿の地点としました。



長森の立場(宿場と宿場の間の休憩場所)跡です。長森膏薬(あかぎれや切り傷)というのが有名やったそうです。



秋祭りで地元が盛り上がっていました。



片山さつき、化粧だけではなかろう。県道261号線に合流します。



関西にはあまり見かけない台湾料理店。メニューをみると、よくある中華料理店とそう大差ないようである。
右はくろん坊様(黒坊大権現)で、咳や熱病の神様とされている。ここらへんで昔、インド人の僧が金品目当てに襲われて、
地元の人がここで手厚く葬ったとありました。



磐田市中泉地区。ここは昔、遊郭があったそうです。街道沿いに姫ちゃんという風俗店がありました。



磐田はあまり、当時を偲ばせる建物はありません。この酒屋さんぐらいだったかな。



遠江国の国府・国分寺が置かれた古代の政治文化の中心都市であり、戦国時代から江戸時代にかけては、東海道宿場町である
「見付宿」があった見付地区が発達した。東海道本線敷設以後は駅が設置された中泉地区も発展。
見付と中泉が合併した1942年以降は郡名に由来した磐田の自治体名で呼ばれることになった。



駅前通りをしばらく北上して、右に(東へ)に曲がります。



悉平(しっぺい)太郎伝説「その昔、毎年、家の棟に白羽の矢が立った家の娘は、8月10日の見付天神の祭りに人身御供として
捧げられるしきたりがありました。村人たちは、祭りのたびに泣いて悲しみました。
ある年、見付を訪れた旅の僧侶がこの話を聞き、このしきたりを無くせないものかと思案しました。そして、これが怪物の仕業
であることを突き止め、怪物たちが「信濃の国の悉平太郎に知らせるな。」とささやくのを聞きました。そこで、悉平太郎が
光前寺(長野県駒ヶ根市)で飼われている犬だということが分かり、この犬を借りてきました。
次の年の8月、祭りの日に人身御供の身代わりに悉平太郎を柩に入れて、見付天神に供えました。そして、怪物が柩を開けた瞬間、
悉平太郎は怪物に襲い掛かり、長い格闘の末、怪物を退治しました。その怪物は大きな年老いたヒヒでした。
その後、人身御供のしきたりは無くなったということです。



街道沿いにある旧見付小学校を見学しました。



1875年(明治8年)に落成した現存する日本最古の洋風木造小学校校舎。



猫を置くところが、なかなか良い。



小学校からすぐのところに本陣跡がありました。



あわ餅が見付の名物だそうです。前述のしっぺい太郎の伝説です。人身御供の日には新粟でついた餅を娘と共に長持ちに入れて
持たせたのが粟餅の由来です。右は、見付宿の東の入口です。



見付宿を出て、旧道をしばらく歩き、県道413号線に合流。掛川まで14キロか、あと3時間かかる。現在午後2時30分。



旧道に入り、行人坂を下っていきます。



右はおそらく、ヤマハスタジアム(ジュビロ磐田のホームグラウンド)と思われます。



左は磐田グランドホテル、とても目立っていました。右は行人坂の峠にある立場です。



左に行けば明治の道、真っすぐに行けば江戸の道につながります。



江戸の古道です。



高架道路が国道1号のようです。





太田川を渡ります。



渡ったところで、袋井市に入りました。



県道413号線から旧道に入り、袋井市木原地区に来ました。木原は1572年、武田信玄が徳川家康を破った
三方原の戦いの前哨戦(木原畷の戦い)の地で知られています。



木原一里塚は江戸から61里目です。本来の一里塚はここから60m東にあったとのこと。
ちょうど、山車が通っていきました。



旧道から県道413号線に合流、そして県道253号線へ。



袋井のまた別の地区の秋祭りでにぎわっています。



澤野医院は1727年(享保12年)に作られた「山名郡川井村差出明細帳」には内科医としてその名が記されていた。



東海道どまん中西小学校=袋井西小学校がありました。



原野谷川にかかるみゆき橋を渡ったところが、袋井宿の中心でした。



10月末の土日には袋井宿開設400年記念祭があるそうです。今日も秋祭りで賑やかです。



江戸時代に開業し、現在でも旧東海道沿いで営業する数少ない旅館です。当館の屋号の由来も江戸時代、庶民のあこがれである
畳の上で寝ることが適えられる旅館という意味でつけられたと伝わっているそうです。



どまんなか茶屋の前を袋井宿の地点とする。



ここでも賑やかな山車が練り歩いていました。



さあ、掛川に向かいます。



これ、広重の袋井宿の山田屋版とのことです。現在の風景とぴったりです。



なかなか個性的な松の木です。



久津部一里塚、江戸からちょうど60里にあたり、江戸時代には老松が立っていたそうです。



これは歌川芳員作。夕暮れの袋井宿。弓を射る案山子に騙され、命乞いする旅人がユーモラスです。



ようやく袋井の東端に来ました。袋井市は長かったなあ。原野谷川を渡ります。



橋から南の方向に小笠山総合運動公園(掛川市と袋井市 の市境に跨がって位置する)が見えました。掛川市に入りました。





掛川宿と袋井宿の境。原野谷川東岸の原川は、室町から江戸にかけて市場や間の宿の役割を担っていました。
この地にある「椎の木茶屋」は、かつて掛川藩主太田備中守の御休息所として建てられ、後に下附されたという由緒ある茶屋で、
屋号も、原野谷川をわたる同心橋のたもとに立っていた、大きな椎の木にちなんで命名されたと伝えられています。




夕暮れの松並木、まさに東海道の原風景です。



東名高速の高架をくぐり、国道1号としばらく並行します。



国道1号の高架をくぐります。



いかにも街道らしい風景です。



再び、原野谷川です。



いやはや、年に1回、見れるかどうかの綺麗な夕陽です。



偶然にも、天浜線を見ることができました。西掛川駅付近です。



6時前です。すっかり暗くなりましたが、大池橋のたもとで広重の掛川宿の絵と合わせました。





今日は掛川祭の最終日で、各地区の山車が掛川城前に集結するとのことでした。



掛川駅は唯一の新幹線木造駅舎です。



袋井も賑わっていたけど、また掛川の祭りはすごいね。偶然にもいい時に来ることができて良かった。



掛川城もライトアップできれいでした。



宿泊はスマイルホテル掛川。無料の朝食がついて、なんと3,500円でした。





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