10 掛川から藤枝まで
10 掛川から藤枝まで





2016年10月10日(日)晴れ。スマイルホテルの無料の朝食を食べて、7時に出発。





この木造駅舎は、もともと昭和15年改築当時の掛川駅木造駅舎を保存する目的で市民の寄付により、平成26年に完成したとのこと。



天竜浜名湖鉄道は、掛川から、西へ浜名湖の北側を通って、新所原(二川の近く)までを結んでいる。(もともと国鉄の二俣線)



あまりに色気があったので、撮ってしまった。



掛川城はもともと室町時代に今川氏が築城したが、現在の城郭は安土桃山時代に同地に入封した山内一豊によるものである。
1994年(平成6年) 市民や地元企業などから10億円の募金を集めて、戦後初となる木造による天守を再建した。



さあ、7時30分から東海道スタート。右は掛川祭で各戸に飾ってあったもの。



掛川の七曲りは省略して、しばらく真っすぐに東へ歩きます。



県道415号線に合流して、また旧道へ。



再び、県道415号線、東京までの距離表示があるということは、旧国道1号線のようです。



また旧道に入ります。



江戸から57番目の伊達方一里塚。明治33年ごろに取り壊されたという。



再び、415号線に合流。日坂宿に向かって、北東の方向に歩きます。



国道1号線の高架をくぐります。





日坂宿に入りました。日坂は小さな宿場であったが、大井川の川止めや参勤交代などで賑わっていたそうです。
宿場の西口から東口までの距離は約700mです。



掛川市内には東海道の痕跡はほとんど無かったが、山の中に入ってくるとこのように高札所まで復元されている。
内容は日坂宿が幕府領であったため、公儀ご法度(幕府法−親子・切支丹・火付・伝馬・毒薬)が中心で、明治6年に撤去された。



左は旅籠屋川坂屋です。大坂の陣で深手を負った武士太田与七郎源重吉が、長松院で手当てを受け、日坂に居住。
その子孫である斉藤次右衛門が18世紀末に始めたと伝えられている。宿の一番西側にあった旅籠で、建築にあたっては
江戸より棟梁を招いたそうです。床の間付きの上段の間があったり、当時禁制であった檜材が用いられていることは身分の高い武士や
公家なども宿泊した格の高い旅籠屋であったようです。平成5年まで斉藤家の住居として使われていたそうです。
右の萬屋は庶民の利用した旅籠でした。建物調査からどうやら食事を提供しない宿であったようです。



山本屋さんでは、わらび餅(あんこ入り)を作っておられるみたいですが、時間が早かったのでまだ出来ていないようでした。
となりは脇本陣であった黒田屋。



左は本陣跡(扇屋)です。敷地は350坪ですから1,000?以上。明治12年より日坂小学校の敷地・家屋として利用されたが
現存していない。右はいよいよ日坂の壁のような坂に取り掛かるところです。国道1号線をくぐります。



東海道の三大難所と呼ばれている「小夜の中山峠」を登っていきます。右は広重「日坂宿」の別版です。



お茶を満載した軽トラが下りてきました。しかしきつい坂であることは間違いないです。



登りきったところには、茶畑が広がっていました。



茶の花を初めて見ました。



左は遠州の七不思議である中山の夜泣き石である。菊川の里に住んでいた妊婦がここで殺されたが、子供は助かった。
この石が夜泣くので、近所の和尚が気が付き、飴を与えて育てたという。その子供は音八といい、大和の国で刀研師に
なり、そこで妊婦を殺した男の刀を研いでいるときにその話を聞いて、恨みを晴らしたという。
右は世界農業遺産に指定されている掛川東山の茶草場である。晩秋の草刈りと搬出作業が様々な生物の生育場所になっているという。



ここを日坂宿の地点としました。



左は佐夜鹿一里塚です。のどが渇きました、冷たい掛川茶を味わいたいものです。



ここ扇屋で夜泣き石伝説に出てくる飴を売っているらしいのですが、閉まっていました。ここが、東から登り切ったところ
(中山峠)になるので、ここでも第2の広重の日坂宿の地点としました。



久延寺(ここの和尚が夜泣き石の子を見つけた)門前で猫がくつろいでいました。



さて菊川の里へ、今度は下りです。



東からの人たちは、急坂の登りに辛そうでした。



ほどなく、間の宿場である菊川の里に着きました。



さてこれから菊川の石畳の坂を登っていきます。いや石畳は風情はあるけれども、歩くにはきついですね。



右は、振り返って菊川の里を眺めているところです。結構、距離があります。



この石畳は江戸時代後期のもの。江戸時代は様々な仕事を助郷によってなされたが、この石畳も近隣12の村に
割り当てられた助郷役の人たちによって敷設された。



ようやく石畳のゴールが見えました。結構、疲れました。ここで休憩し、靴下を履き替えます。



まさか石畳の下り(金谷坂)があるとは思いませんでした。近年、わずか30mだけが残されてた以外はコンクリート
であったのを、平成3年に町民600名を得て実施された平成の道普請で延長430mが復元されました。



下りのゴール手前に洒落た石畳茶屋がありました。ジャズが流れる癒しの空間で、賑わっていました。



石畳を下りきって、金谷駅方面に向かいます。





ほどなく金谷駅の北側に到着。金谷坂を下ってきた大名行列はこの橋の北側にあった茶屋で休憩し、身なりや隊列を
整えてから宿場町に入りました。



江戸から53里となる金谷一里塚跡。大井川鉄道の金谷駅はJRの金谷駅の東側にあります。



今は金谷南地域交流センターになっていますが、柏屋という本陣があったところです。



もう12時前なので、金谷で昼食場所を探していましたが、ありませんでした。



11時54分、前方の踏切のところでカメラを持った人たちが集まっていました。ちょうど大井川鉄道のSLが通過しました。



いやあ、乗っている人たちの笑顔をみて、私も乗りたくなりました。蒸気機関車を見たのは初めてです。
C10型8号機は、昭和5年川崎車両で製造。昭和36年に会津若松区で廃車を迎えるも、昭和62年宮古市でSLリアス線
として復活。平成6年4月に岩手県宮古市のラサ工業(株)より大井川鐡道に入線。平成9年10月より営業開始。



新金谷駅を見に行くことにします。日本で初めて蒸気機関車の動態保存を始めた鉄道で、現在でもほぼ毎日運転されている。
また、蒸気機関車の保存運転を行っている縁から、1977年(昭和52年)12月19日にスイスのブリエンツ・ロートホルン鉄道
と姉妹鉄道提携を結んでいる。



昭和2年開業で木造駅舎。1日に4本運行していてトーマス2本は満員、SL2本の方は空きあり。やっぱりメインはお子様なんですね。
鉄道事業収入は、沿線人口の減少などから、現在はその9割をSL列車への乗車を目的とする観光客から得ている。



駅前の「わらう猫」という喫茶店でハヤシライスをいただきました。この店の女主人に聞くと、やはり金谷は食べるところがないとの
ことでした。食後にサービスで焼き芋をいただきました。



さて大井川を渡るべく、先を急ぎます。



当時はこの辺に、川会所(旅人がっこで川札を買う所)、川高札場(川越しの方法やきまりの掲示)、番宿(川越
人足の待機所)などがありました。



広重の大井宿は、渡る手前でした。



大井川橋は昭和3年に竣工、長さは1,026.4m。



大井川は3つの川筋がありました。昨日に雨が降っていたせいか、流れは結構、急でした。



広重の島田宿にも、3本の川筋があることがわかります。



橋を渡って、しばらく川沿いを南へ歩き島田市博物館のところで左に曲がります。博物館は島田宿の川越制度を
詳しく展示しているらしいです。今回は時間が無いので割愛しました。以下は博物館のHPからの引用です。
「慶長6(1601)年、徳川家康は、東海道に伝馬制度(てんませいど)を設け街道の整備をしました。しかし、大井川や
安倍川などには橋を架けず、徒歩での通行と定めました。特に大井川は駿河と遠江の国境であったため、幕府の防衛政策などにより
架橋、通船が禁じられていたといわれています。「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と馬子唄でも唄われたように、
大井川は東海道最大の難所で、増水のため川留めになると、旅人は水が引くのを何日も待つことがありました。」



左は、ここで水をくい止めたせぎ跡です。ここから先300mは「島田宿大井川川越遺跡」の国指定の史跡になっていて
当時の町並みが復元・保存され、江戸時代の情緒を残しています。



ここが川会所です。旅人は川会所に出向いて川札(川越札や油札ともいわれる)や台札(連台を借りるための札)を買い、
川越人足に手渡してから、人足の肩や連台に乗り川を越しました。川札は防水のために油が染み込ませてあり、人足は旅人より
渡された川札を髷や鉢巻に結びつけ川越したとのこと。
右の半高欄連台は、公家や大名の重臣など上級武士とその婦人を乗せる連台です。



大井川の普段の水位は二尺五寸(約76cm)で、四尺五寸(約136cm)を超えると川留めとなりました。川越しのできる時間は、
明六ッ(午前六時頃)〜暮六ッ(午後六時頃)と決められていました。
川庄屋:川越賃銭の統制、日々変化する水深を勘定して賃銭を決定するなど多岐にわたっていた。
年行事:川越賃銭の取立て、帳簿の記載、人足の区分・配置など、川越人足を勤めた者のうちの高齢の長老が選任された。



右は札場です。川越人足が川札を換金するところです。1日の仕事を終えるとそれぞれの番宿で川札を回収して、
札場で現金に換えた後、人足たちに分配した。



番宿に、川越人足のリアルな人形がいましたが、かなり劣化していました。



島田宿大井川川越遺跡を過ぎると、東海道は殺風景な工場街になっていました。



今日、10月10日は第108回島田大祭りの最終日。左は大井神社です。



島田駅周辺の東海道は歩行者天国になっていました。



山車の小さな舞台で小若(子供)の踊りを見ていると、西川きよしの素人名人会を思い出した。「大久保怜先生、どうでしたか?」



皆さん、どうして道端に座って、待っているのかなと思っていたけど、これから祭りのメインとなる大名行列等が
東海道を東から西へ練り歩くのが、始まるところでした。ちょうどこのようなタイミングに島田宿を歩けて幸運でした。
先触れが「下に、下に」と先導します。



続いて、槍持ち、お殿様(子供)、お弓・・・・



これが島田の帯祭りといわれるものです。行列の花形、大奴25人衆です。行列は笛の音も太鼓のリズムもなく、静寂に進んでいきます。
昔、島田の町では、他町村から嫁を迎えると晴着のまま披露するしきたりがあった。嫁いで来たばかりで何も知らない嫁が晴着で披露する
のは、余りにも酷だということでなんとか改めようと協議した結果、帯を身代わりに祭典の日に宿民いずれもが、神輿の渡御拝観に出かけ
るので、氏子になった報告と安産を祈願して皆に披露することとなったというのが、この奇妙な祭りのはじまりです。



左:挟箱・台傘・立傘…挟箱は殿様の衣装や小道具を入れた箱のこと、いわゆる道具持ちか。大奴と対照的に派手な動き。
右:大鳥毛・赤熊…大鳥毛が手から手へ、華麗に舞う、これもダイナミックなパフォーマンスでした。



中村菓子店で買ったここの名物、酒小饅頭は本当に美味しかった。



いやはや、まさか大名行列を見れるとは思いもしなかった。この後、また思いもしなかったことが起こる。前方の若い女性が運転する
軽自動車が縁石に擦って動きがとれなくなり、片車線を塞いでしまっていたところに出くわしたのであった。ここでまたI君が男気を見せ、
ジャッキアップして、動かしてあげた。私はジャッキアップの経験がないのでJAFを呼んでいただろうな。



藤枝市に入りました。





ところどころに松並木が残っていました。左は上青島の一里塚跡です。



松並木。



左は「喜久酔」の醸造元である青島酒造。右は藤枝の名物である染飯茶屋跡。瀬戸の染飯は東海道が瀬戸山の尾根伝いに通っていた頃から
尾根の茶店で売り始めたといわれ。天正10年(1582年)の「信長公記」にその名が記されている。東海道が平地を通るようになっても
この茶店跡で江戸時代の終わりまで売られていたという。染飯は強飯をくちなしで染め、薄く小判型にしたものであったという。
くちなしは足腰が強くなるというので旅人には好評だったという。



(右)古東海道跡:昭和30年代まではここから西に瀬戸山の丘が続いていた。この碑のところから細い道が瀬戸山の上を通って、
山を下ると内瀬戸の部落に通じていた。この道が中世からの瀬戸の山越えといわれた古東海道である。松並木の東海道ができた頃も、
大井川の洪水が山裾に寄せたときは、旅人は丘の道を通った。島田から志太の山沿いに藤枝への道を通るようになったのは、鎌倉幕府
を開いた翌年、源頼朝上洛の帰路が初めてであるといわれる。



東海道はここから北東方向になり、JR東海道線より離れていきます。



この辺(瀬戸新屋村)は田中藩領と掛川藩領が入り組む特異な村で、藩の境を示す石碑である。右は、今日の終了地点です。
35キロほど歩いたでしょうか。ここから真っすぐ南に行くと、JR藤枝駅です。



島田市は知らなかったが、藤枝市は前から知っていた、それはサッカーで知られた藤枝東高校のせいだろう。
高校入学時に男子生徒は全員サッカーシューズと柔道着を必ず購入しなければならないそうだ。16時40分藤枝駅に到着。



16時54分発静岡行きに乗りました。島田の帯祭りがあったので、満員電車でした。



藤枝駅前の喜久屋で、染飯を買いました。確かにもち米のおこわでした。



静岡駅からこだま号に乗り、のんびり駅弁を食べたまでは良かったが、名古屋から乗った博多行きののぞみ号は満員で座れませんでした。



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