14 沼津宿から箱根宿まで
14 沼津宿から箱根宿まで





2017年5月27日(土)晴れ。JR西宮駅午前5時37分発の電車に乗り、新大阪駅へ。駅弁が飛ぶように売れている。



前回と同じく、6時27分発のひかり506号に乗る。うーん、寝不足だ。



今回は東海道新幹線弁当1,000円、沿線の各地の名物を集めたものが、うまくバランスが取れていておいしい。



今回も静岡駅で降りる。5分しかないので、急ぎ足で東海道線に乗り換える。なんと今日は車窓から富士山が見えた。



これまで歩いてきた風景を振り返りながら、静岡から約1時間で、沼津駅へ。



9時30分、駅南口から、旧東海道までの道すがら、今日は城岡神社の祭りがあり、その準備に追われていた。
神社はかつてあった「沼津城」の鬼門に位置するお社として知られている。





前回は、沼津止まりで、三島・箱根・小田原をすっとばして、2コマ先に進んだので、2コマ戻してさあ、出発。



前回は日没終了だったため、撮れなかった広重の沼津宿は、狩野川の袂で。



川沿いを北上していくと、平作地蔵尊があった。日本三大仇討ちの一つ。この地蔵尊の由来は、いつの頃創建されたかは
明らかでないが、有名な浄瑠璃『伊賀越道中双六』に出てくる沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊として知られている。
地蔵尊の建てられている場所に昔、1軒の茶屋があり主を平作といい、娘のお米(後の渡辺数馬の妻)に茶店をやらせ
自分は旅人の荷担ぎをしていた。そして仇の川合又五郎の行方を知っている旅人十兵衛(20年前に別れた平作の子)
に、娘お米の夫・渡辺数馬のため、平作は自害してその居場所を聞き出す。
沼津千本の場面−平作決心して自害し、「死にゆく仏の供養として聞かせてくれ」と申します。十兵衛はその情に引かされ
遂に明かします。「仇河合又五郎の落ち行く先は九州相良吉田で逢うたと人の噂」と浄瑠璃の名セリフで有名。
平作のおかげで数馬の義兄荒木又右衛門の助太刀で首尾よく仇討ちの本懐を遂げることができ、平作爺さんの義侠心は、
のちの人々の心を打ち、ここに地蔵尊を建立したという。この仇討ち(鍵屋の辻の決闘)は娘お米の夫・渡辺数馬の
弟の渡辺源太夫が、男色のもつれで殺されたという訳のわからない原因となっている。



BIG JOHN, WRANGLER, BOBSON, EDWIN, LEE, LEVIS・・・昭和の時代に流行したジーンズメーカー、なつかしい。



右の旧道に入るとすぐ、「従是西沼津領」の傍示石があった。初代沼津藩主、水野出羽守忠友は1777年に将軍家治の
御用人になり、加増されて2万石の大名となる。このとき、忠友は沼津の地に所領(1万4千石)を与えられ、将軍から
築城を命ぜられる。良く1778年、この傍示石が東海道沿いの黄瀬川村と下石田村の境界に建てられ、沼津領域が確定した。



潮音寺に亀鶴姫の碑がある。姫は黄瀬川村の長者の娘で評判の美人であったことから、源頼朝から富士の巻狩りのときの
酒宴の酌婦として声がかかったが、これを拒み、憂き世に嫌気がさして右の写真の黄瀬川の川上の滝で自ら命を絶ったという。



黄瀬川から見た富士山。
右は、八幡神社。この境内に対面石がある。相模と伊豆の武士たちを率いて挙兵した源頼朝が西に軍勢を進めたところへ
奥州から源義経が駆けつけ、そこで2人が対面したときに腰かけた石だと伝えられている。



しばらく歩を進めると、左に玉井寺、その敷地内に玉井寺一里塚がある。江戸から29里(113.9キロ)を示す道標で
昔の姿をそのまま残している貴重な一里塚である。



道の反対側には宝池一里塚。一般的には伏見一里塚と呼ばれ、長い年月、風雨にされられ原型が損なわれたので、
昭和60年に多くの篤志により原寸とおり復元された。



この境川が駿河と伊豆の国境(現在は清水町と三島市)である。



ようやく三島市内に入ってきた。



前方は、伊豆箱根鉄道の三島広小路駅である。三島から修善寺までを40分でつなぐ。乗ってみたいなあ。



ここでも、痛列車か。



踏切を渡ったところに、創業安政3年のうなぎの桜家があった。また11時過ぎなのにものすごい行列で即、あきらめる。
うなぎ屋の少し先に、世古本陣址と樋口本陣址が向かい合わせであった。



左が世古本陣址、右が樋口本陣址。三島は東海道と下田街道・甲州道と交差し、また箱根越えの拠点として賑わっていた。



旧東海道から少し、北に入ったところのうなぎ屋すみの坊本町店で、うな丼並(3,240円)をいただく。大満足でした。
これまで東海道では、大津のかねよ、宮の蓬莱軒、天竜川の中川屋、そして三島のすみの坊と4軒目。
東海道は、うなぎ街道といっても過言ではないと思う。



三島は湧き水の街なんです。富士の伏流水です。



12時10分、三島大社に到着。



広重の三島宿は、わかりやすい。



社名の「三嶋」とは伊豆大島・三宅島等から成る伊豆諸島を指すと言われる。伊豆諸島に対する尊称は「御島(みしま)」



源頼朝が源氏再興を祈願した千数百年の歴史を持つ大社。福太郎茶屋の福太郎餅は、こしあんでくるんだ草餅だそうです。



門前前のうなぎ屋も、先ほど食べた「すみの坊」の大社前店で、昼時で人が並んでます。前の道は下田街道だそうです。



大場川からの見た富士山は最高でした。電車とともに撮りたかったなあ。



これ旧東海道踏切なんです。踏切を渡ったところが・・・



そこは箱根旧街道入口であった。いきなり比較的、きつい登り坂です。



墓碑は、悪名高き三島の駕籠かき備前繁のものである。備前岡山藩の藩士の次男であったが、親の仇を討つために諸国を旅する
うちに、三島で駕籠かき(雲助)となった。それも真面目に駕籠を担ぐ駕籠かきではなく、「蜘蛛」とあだ名されるヤクザな
駕籠かきであった。大名行列の人足頭に金をせびり、尻を突き出し「切れるものなら切ってみろ」と喧嘩を売ったところ、
尻を斬られてしまい、死んでしまったそうだ。



ここ初音ケ原付近では、旧国道1号線上り線に旧街道があった。この松並木は三島市内に残る唯一の松並木である。
素敵なレストランがあった。



レストランアサカ。富士山を眺めながらの食事なんて、いいなあ。生きているうちに行ってみたい。



錦田一里塚。江戸より112キロの地点にある。



山の中に入っていくと思ったら、このような住宅街のところになったりする。



前方、道が3つに岐れている。正解は真ん中の道。案内板が道の奥にあるのでわかりにくい。



臼転坂。牛がこの道で転がったとか、臼が転がったとかでこの名前が付いた。




途中、馬頭観世音の石碑があった。直射日光が当たらない木漏れ日の道は実にいい。



足利尊氏建立七堂跡の石碑があった。何のことかは案内板が無いのでわからないが、ここ箱根西坂では新田義貞との戦いがあった。



松雲寺。明治天皇がここで休んだという。



ここらへんは富士山からその裾野〜駿河湾までのパノラマ眺望が楽しめる。



こわめし坂に取り掛かる。急こう配で背に負った米も人の汗や蒸気で蒸され、ついに強飯のようになるからという。



往来の激しい車道を横断する。



笹原地区の石畳。430m区間のうち、380mが平成9年度(1997年)が復元された。石畳は幅2間(3.6m)が基本。
ローム層の土なので、急坂は人も馬もすべって大変だったので、最初は箱根竹の束を敷いたが、1680年に石畳に改修された。



牛馬頭観世音。馬頭観音は、六道のうちの畜生道担当という俗信に基づいて、牛馬の守護神と考えられるようになった。
路傍の馬頭観音碑は、牛馬の無病息災や安産を祈願するもの。なかには、死んだ牛馬の供養塔もある。とくに、峠路で
突然死した馬などは、埋葬や移動の術もない。里人に依頼して、解体処分という凄惨な情景となる。
その臨終の地に建つ馬頭観音碑には、愛馬を偲ぶ馬主の悲哀がにじむ。
右は、三島スカイウオーク。2015年12月に開業した新しい名所である。全長400mのつり橋は歩行者専用としては日本最長。



山道は草ぼうぼうで先に進めず、舗装道を行く。



再び、腰巻地区の平成6年度に復元された石畳の道へ入っていく。



最近、昼飯を抜いているので少し痩せたようだ。



左は箱根八里記念碑。司馬遼太郎作『幾億の跫音(あしおと)が坂に積もり 吐く息が谷を埋める わが箱根にこそ』
箱根由来の作品といえば「箱根の坂」これは北条早雲の話。右は、山中城址(1558-70に築城)。山中城は北条氏が小田原城の
西の防塞として箱根峠の西坂(標高580m)に位置する。この城は山城にしては大規模なもので、兵が4000人程度も収容
できたそうです。北条氏滅亡と共に廃城となったため、北条氏独特の城郭の構造を多く残している。



残念ながら時間が無いので、山中城址はパスする。右は、雲助徳利の墓である。松谷久四郎は西国大名の剣道指南役であったが
大酒飲みのため、事件を残して国外追放となり、箱根で雲助の仲間に入った。優れた剣術の腕前があったので、雲助をいじめる
武士を懲らしめたり、読み書きが出来るので、文盲の雲助たちの手紙を読んだり書いたりで、やがて雲助仲間から親分以上に
慕われるようになったが、しかし普段は酒を飲んでごろごろしていたので、そのうち死んでしまった。そこでお世話になった
雲助仲間はお金を出し合い、立派なお墓を立てて恩返しすることにした。その墓には彼が一生飲み続けた酒を、盆と徳利で
刻むことにした。「箱根の雲助」は悪者の代表のようなイメージがあるが、このように心優しい雲助がいたわけである。




平成7年度(1995年)に整備した願合寺地区の石畳を通過。



ここに来て、はじめて笹藪が出てきた。



左の写真の左の突き当りに明治天皇小休址の石碑があった。右は兜石。兜の形をしていること、あるいは秀吉の小田原征伐
のとき、兜をこの石の上に置いたからその名がついたとも。この石は兜石坂にあったものを昭和の初めに国道1号線の
拡幅工事のときにこの場所に移設された。



左は、徳川有徳公の碑。有徳公とは吉宗のことで、紀州藩主から将軍になった吉宗が東海道を江戸に向かう途中、この先の
接待茶屋で休憩したとき、茶屋の主人に馬の面倒をよくみた褒美として永楽銭を与えたという。



左は接待茶屋。創始は江戸時代中期、箱根山を往来する者の苦難を救うため、人や馬に粥や飼葉、焚火を無料で施したという。
その後一時途絶え、再興するも明治維新とともに中断。やがて明治12年、八石性理教会によって接待茶屋は再スタートしたが
教会の衰退とともに鈴木家に引き継がれた。鈴木家は昭和45年(1970年)に茶釜を下ろし、接待茶屋の歴史に終止符を打つまで
の90年間、箱根を往来する人馬の救済に当たったという。
山中一里塚まで来たが、箱根関所跡まであと、4キロもある。関所見学の入場リミットが16時半なので、やばくなってきた。



笹藪のトンネル、箱根山ではここしかない。



あと3キロ。はぁーはぁー。急ぎ足の相棒になかなかついていけない。日頃の運動不足、昼飯抜き、寝不足のせいか。



ようやく、長かった静岡県から神奈川県に入り、標高846mの箱根峠にたどり着いた。



しかし、困ったことに、この峠から芦ノ湖に向かう道標がなく、途方に暮れる。県境だから、道標がないのか。



無茶な気がしないか、この道。歩く人のことを考慮していない道路整備だな。まったく。



今度は急な階段を下り、急坂を下りていく。



道路の下をくぐって、しばらくすると舗装道が見えてきた。やれやれ疲れた。



左に曲がってしばらく行くと、もうそこは箱根宿の中心になる。



民宿にしむらは、建物こそ建て替えられているが、宿場時代に旅籠だった家が民宿を続けている。



ついに芦ノ湖まで来た。昔、今から28年前に、以前勤めていた会社の社員旅行で、この海賊遊覧船に乗ったなぁ。奇しくも、
今回の東海道の旅の相棒もそうだった。しかしお互い遊覧船に乗ったことは記憶していても、どこに泊まったかは覚えていない。



28年前、1989年(平成元年)にタイムスリップするとこうなる。相棒は今とは考えられないくらい若い。



箱根宿の撮影はココで決まり。



ここが箱根駅伝のゴール地点。大正9年(1920年)からやっている。右:箱根関所、ようやく着いた。



時間は午後4時20分、(最終入場が4時半、閉館が5時)、なんとか関所を時間内に突破することができた。



左は、人見女。女性の旅人が関所を通過する際、髪を解いたりして取り調べを行った。受けている方は悲しそうな顔をしている。



遠見番所(足軽が関所破りに備えて街道やその周辺、芦ノ湖を見張っていた)まで登っていく。疲れた脚にこたえる。



このあと、資料館へ。



資料館から元箱根へ。箱根唯一のコンビニがあり、明日の朝食はここで調達することになる。



箱根神社の鳥居を抜けて、しばらく歩くと、今日の宿「民宿 大場」があった。



箱根の飲食店は6時までに閉めるところがほとんど。というのも泊り客はホテルで食べるからだ。しかしながら、
民宿大場から徒歩1分のところに、箱根では唯一かもしれない居酒屋があった。やきとり本陣 家康。



どれもこれも美味しい。芦ノ湖名物のワカサギのフライがあればなお良かったなあ。お客さんは外国人が多い。



関西ではまず家康という屋号は付けないだろうなぁ。さあ、帰って寝ることにします。






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