15 箱根宿から国府津駅まで
15 箱根宿から国府津駅まで





2017年5月28日(日)晴れ。民宿大場の部屋は快適でした。素泊まりで6,000円でした。



朝7時10分に出発。箱根燃料と箱根石油、紛らわしい。民宿に貼ってあった地図(上↑)はわかりにくい。赤線が正しい経路。
どうやら前方の木の橋を渡るようだ。



フェンスのすき間から入って、陸橋を渡る。



ここが出発地点です。なかなか趣きがあるなぁ。小田原から来た旅人は、いくつかの急所・難所をあえいで
辿り着き、一息つくのが、ここ権現坂。目の前に芦ノ湖が見え、箱根山に来たという実感が得られる所です。





この付近は江戸時代の東海道が鎌倉時代の東海道と交わるところらしく、鎌倉時代は尾根伝いを通る湯坂路と呼ばれた。
江戸時代の初め、湯坂路に替わり、須雲川沿いの谷間の道が整備された。



江戸初期創業の甘酒茶屋。現在の店主が13代目とのことです。



左は明治時代、3軒並んでいた。右は大正時代。道中には甘酒を振る舞う茶屋が箱根では9箇所設けられ、ここには
かつて4軒あった。明治13年(1890年)国道1号線が開通してからは街道を歩く人が減少して、ここ1軒を残すのみとなる。



さあ、力餅を食べて出発だ。



猿すべり坂(新編相模国風土記稿には「特に危険、猿といえどもたやすく登り得ず、よりて名とする。」)を階段で下っていく。



右が石畳の旧道に入る入口である。橿木坂付近。



この旧道は関東大震災(1923年)及び北伊豆地震(1930年)などの度重なる災害により大半が崩壊・埋没したが、
残された一部の石畳を再現し、自然歩道として神奈川県が整備した。



石畳は小石と石を突き固めた地面の上に、石と石とを組み合わせて並べており、さらに石畳みの横に縦の排水路がある。
右は、斜めの排水路。石畳の上を流れてきた雨水を石畳の外へ追い出すために、うまく配列してある。



畑宿一里塚。いやこれは東海道で唯一原型を留めた昔ながらの一里塚かと思ったが、明治時代以降、一部が削られてしまうなど
江戸時代の姿は失われてしまい、復元整備を行ったもの。畑宿からみて右側がモミの木で左側がケヤキの木が植えられていた。



午前9時、畑宿に到着。
畑宿は郷土の伝統工芸である箱根細工が生まれ育ったところ。木地細工が作られた記録はかなり古く、小田原北条氏まで
遡るという。江戸時代は間の宿として栄え、たくさんの茶屋が並び、そば、鮎の塩焼きが名物であった。



左は明治初期の畑宿、旅籠「ますや」、右は江戸時代の面影を残す明治の畑宿の家並み。江戸時代後期には40数軒の
人家があって繁栄を極めていたという。



今でも現役の宿があった。「たちばなや」ネットの情報であるが、ごはんも美味しく、評判の高い民宿のようである。



再び、旧道へ。



江尾時代後期、ここ割石坂(曽我五郎が富士の裾野に仇討ちに行くときに刀の切れ味を試そうと、巨石を真っ二つに切り割った
と伝えられている。)付近に、旅人や馬に湯茶や飼葉を施していた接待茶屋があった。右は江戸時代の石畳。





なんか怪しい新興宗教らしい稲荷権現があった。右は「女転し坂」馬に乗った婦人がこの付近で落馬して死んでしまったという。



これもなんだか怪しい箱根大天狗山神社。日本一幼神供養神社とある。



癒される滝だ。この先、ずっと舗装道となる。この辺の集落を須雲川という。この場所に集落が出来たのは、江戸の初めの寛永のころ。
天下の街道となった箱根道を往来する人のため、また道路管理を維持するために一定の間隔をおいて集落をつくる必要があった。



山あいのこの辺りは、つつじがとても綺麗だ。私の地元ではとうに終わっている。天山湯治郷のホテル・旅館街の道へと左へ入る。



この先、豪華ホテルが建ち並んでいる。



右はホテル南風荘。部屋に露店風呂が付いている部屋は2食付きで、一人46,000円です。露店風呂無しで、23,000円



左が、湯本源泉。



湯もちは、箱根名物のお菓子で、お餅の中に羊羹が入っている。右へ行くと、早雲寺のある旧東海道となるが、ここは左へ箱根湯本駅方面へ。
早雲寺は早雲の子の氏綱が建てた早雲の菩提寺であり、小田原北条氏の歴代当主の早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の墓がある。
1590年(天正18)の豊臣秀吉の小田原攻めですべて焼失。その後1627年(寛永4)に再興された。



こういう老舗の旅館はいいねぇ。萬寿福(ますふく)、昭和2年創業、昭和8年 宮大工を集め再建された現在の建物は、
職人の知恵と遊び心が詰まっているそうだ。1泊2食付きで16,000円。右は自然薯そばで有名な「はつ花そば本店」、
まだ10時45分だが人で溢れている。貞女「初花物語」を以下に記す。”此処らあたりは山家ゆえ、紅葉あるのに雪が降る”とは
ご存じ歌舞伎狂言に名高い浄瑠璃の一句で、初花の夫である勝五郎を恋する名セリフである。父の仇敵を追って箱根山中に
差しかかったが、ふとしたことから勝五郎の病は募るばかりに。その身を案じた初花は毎夜、夫の寝るのを待って向山の滝で
身を清め、箱根権現へ夫の病気平癒と仇討成就の願をかけ、ひまさえあれば山中に深く入り、天来の薬餌で名高い自然薯を掘り集め、
夫に薦めたのであった。初花の思いが天に通じ、慶長4年(1599年)、8月に遂に佐藤兄弟にめぐり逢い、見事に本懐を遂げたという。



左は小田原馬車鉄道の湯本駅跡である。この橋の袂の付近に駅があった。明治21年(1888年)10月、国府津〜湯本間に日本で
3番目の小田原馬車鉄道が開通。今日の箱根登山鉄道の前身。全長12.9キロを1時間20分で走った。これで東京〜箱根間は
日帰りが可能となり、また大正8年には強羅までの山岳鉄道が開通した。その時に駅は現在のところに移った。



早川に架かる朱色の欄干のあじさい橋(あじさいは箱根の花)を渡るとそこは、旧東海道であった。この橋は昔、「ほまれ橋」
という名前であった。これは太平洋戦争のさなか、この上にあった三昧荘という旅館が陸軍病院の転地療養所となり、傷病軍人が
療養に来たいたことに由来する。



三枚橋を渡って、箱根をあとにして国道1号を小田原方面に向かう。





ロマンスカー、関西人にはなかなか乗る機会が無いが、一度は乗ってみたいなぁ。



ここで国道1号は、横浜方面と小田原方面とに分かれるので、ここで道の左側に寄っておかねばならない。
またこの辺りは、戊辰戦争時に旧幕府方の遊撃隊と小田原藩を中心とした新政府軍とが戦った山崎ノ古戦場であった。



ロシアのマトリョーシカのルーツは箱根だった。ホンマかいな。マトリョーシカは1900年のパリ万国博覧会で銅メダルを受賞したのを
機会に、ロシア帝国各地でいろいろなマトリョーシカ人形が作られるようになり、ロシアの民芸品、みやげ物として知られるようになった。
ルーツの有力説として?1890年代半ば、モスクワ郊外に住む画家とろくろ師がモスクワの工房「子供の教育」で制作されたという説、
?19世紀末、神奈川県の箱根にあった正教会の避暑館にやってきたロシア人修道士が、本国への土産に持ち帰った箱根細工の入れ子人形
(こけし・だるま・七福神)がマトリョーシカのもとになったという説がある。 ウイキペディアより。



このロマンスカーは昭和の時代に子供たちの憧れであった古い車両ではないのか。1980年以降に登場した7000系LSE車のようです。



風祭あたりで、旧道に入る。右は江戸から21番目の風祭一里塚である。



風祭駅を過ぎ、小田原・厚木有料道路をくぐって、旧道から国道1号へ。



左は小田急ロマンスーEXE(30000型)、現在5種類もある。右は伊豆箱根鉄道の各駅停車である。



再び、旧道へ。



左は、醤油醸造業を営んできた内野邸です。右は東海道新幹線のガードです。



ようやく南へ下る道が終わり、国道1号線を東へ行く。



明治29年3月、熱海方面への陸上輸送路として豆相人車鉄道が開設され、早川口が小田原駅となった。明治41年に
軽便鉄道となり、大正11年12月、国鉄熱海線が真鶴まで開通したことによって、廃止された。



これは珍しい桶屋の修理屋である。



12時40分、そろそろ昼飯しようと、街道沿いを物色するもあまり飲食店がない。かろうじて城近くに東喜庵という
そば屋に入る。ビールは箱根マラソンのスポンサーであるサッポロ。



かき揚げのハーフとそばのセット1,100円。かき揚げは、ごはんに乗っけて天つゆをかけて食べる。美味しかった。



城のような建物は小田原名物のういろう本店である。東海道中膝栗毛にも登場する。



お菓子のういろうと、和漢薬のういろう(透頂香)の両方を売っている。まず薬について、14世紀の元朝滅亡後、日本へ亡命した
旧元朝の外交官(外郎の職)であった陳宗敬の名前に由来すると言われている。陳宗敬は博多に亡命し日明貿易に携わり、
輸入した薬に彼の名が定着したとされる。室町時代には宗敬の子・宗奇が室町幕府の庇護において京都に居住し、外郎家
(京都外郎家)が代々ういろうの製造販売を行うようになった。戦国時代の1504年外郎家の分家(小田原外郎家)が成立し、
北条早雲の招きで小田原でも、ういろうの製造販売業を営むようになった。江戸時代には去痰をはじめとして万能薬として知られ、
『東海道中膝栗毛』では喜多八が菓子のういろうと勘違いして薬のういろうを食べてしまうシーンがある。
店内では、高齢者の方々が5〜6千円も出して購入され、飛ぶように売れている。店員の方に効能を聞くと「のどとお腹の薬です。」
と言われる。右の写真をみると仁丹のようである。原料もよく似ており、現在では口中清涼・消臭等に使用するといわれる。



次にお菓子のういろう。明治時代にういろうの販売を開始した。小田原外郎家では「お菓子のういろう」と呼ばれ、外郎薬と区別されている。
「白・茶・小豆・黒」と「栗ういろう」がある。小田原外郎家は本家との自負から、青柳総本家(名古屋)や梅寿軒(下関)の商標登録を
特許庁が認めたことを不服として、特許庁を相手取って裁判を起こしたが、いずれも敗訴している



結局、何も買わずに店を出た。さて小田原城に向かう途中に、湘南クッキーの無人販売所があった。



天正18年(1590年)の小田原合戦の様子。四面楚歌である。



右は明治8年(1875年)の久輪橋(常盤木橋)。



昭和の時代に動物園があったせいか、猿がいた。恨みのある秀吉をからかっているのか。



この3匹の肩を寄せ合っている様子が、忘れられない。何を思うのか。



この小田原城は何度も大規模修理や建替えを行っている。順に書いていくと、?15世紀中頃、大森氏が築城 ?小田原北条氏が
大規模に整備 ?1633年の寛永小田原地震で大きな被害が出て、修復工事を行い、1675年に工事を終える。 ?1703年元禄地震
で、天守をはじめ城の諸施設が倒壊・焼失 ?1706年天守が竣工。?1782年天明地震で天守が傾く。?1853年相州小田原大地震
で、櫓・石垣に大きな被害。?1870年(明治3年)廃城となり、天守などが売却・解体される。?1923年 大正関東大震災により
石垣や櫓が倒壊。 ?1960年(昭和35年)天守閣が復興。?2016年(平成28年)天守閣の耐震改修工事。



立派で大きな櫓の鯱瓦、右はここでも、ういろうの薬入れがあった。



小田原藩の領内には東海道とその脇街道が通っている。その内、箱根、根府川(小田原市)、南足柄市、山北市に全部で6か所
の関所があり、それだけの関所を管轄していたのは小田原藩が唯一。幕末に黒船が現れると、海岸線に台場を築いた。



左は昭和16年、天守址の清掃を小学生が行っているシーンです。右:なんと遊園地もあったのですね。



昭和35年2月の天守閣工事の様子、4階までのコンクリート打ちが終わり、完成間近。右は昭和35年5月1日の新聞。



1971年にリリースされた小柳ルミ子のデヴューシングル「わたしの城下町」は、小田原城で撮影されたもの。
右は、5階の展望デッキからの眺望で、小田原駅が見える。



左は、小田原城の敷地がJR線によって分断されていることがわかる。右は箱根方面を撮ったもの。あの山奥から歩いてきたのだ。



左は、西方面で相模湾のパノラマ、右は東方面の三浦半島方面。この眺望だけでも小田原城に来る値打ちがある。



赤銅門(あかがねもん)、左は土塀模型。右:まだ工事中でここから城外に出れなかった。



午後2時45分、城を出て東海道へ。



柳の木がある古い建物がいい味を出しています。昭和7年に建設された旧網問屋を再整備した小田原宿なりわい交流館
である。入ると、冷たいお茶のサービスがあり、一気に飲み干した。城見学のあとに、ここで休憩できて良かった。



左は清水金左エ門本陣跡である。箱根越えを控えて多くの大名や旅行者が宿泊し、東海道中でも規模が大きい。4軒の本陣、
4軒の脇本陣、95軒の旅籠があった。この清水家本陣は、尾張徳川家、島津家、細川家(熊本)など西国の有力大名の
定宿になっていた。 右は、昭和20年8月15日の小田原空襲後の焼跡である。この日はまさに敗戦当日なのだが、
B29による焼夷弾が、深夜1時から2時頃に落とされたのであった。焼失家屋は400軒で、死者12名であった。



かまぼこ屋さんが並んでいましたが、ここはかまぼこ通りという。



先日、NHKのブラタモリで、此処やまじょうでの蒲鉾作りが紹介されていた。



国道1号線沿いに出てしばらく歩くと、江戸口見附ならびに一里塚があった。江戸から20番目の一里塚で、道の反対側にもある。



側道に入り、新田義貞の首塚があるはずなのだが見つからず、この新田明神旧祠があった。





広重の小田原宿は、ここ酒匂川です。



読み方は、さかわ川。大きな川なのだが、二級河川である。1707年(宝永4年)に起きた富士山の宝永大噴火の際には、
酒匂川流域で大量の火山灰が積もり、下流では長年に亘って大雨の度に泥流に悩まされた。1787年に酒匂川流域に生まれた
二宮尊徳も、幼少期に繰り返された酒匂川の洪水で苦労を重ねている。



江戸から19番目の小八幡一里塚である。看板しかない。



もうすぐ国府津駅。ここから駅までなだらかな登り坂になっている。



目的地の国府津駅に16時40分に到着。



1887年、初代横浜駅(1915年以降は桜木町駅)から当駅までの鉄道路線の開通に伴い、国府津駅は開業した。その2年後の
1889年には当駅から御殿場駅・沼津駅を経て静岡駅までが開通したが、国府津駅から御殿場駅までの区間は勾配がきついため、
列車を後押しする機関車を連結することとなり、当駅は機関車の基地として重要な役割を有することとなった。
1888年には、駅前から小田原・湯本までを結ぶ小田原馬車鉄道も発着するようになった



熱海駅行きの快速で小田原駅へ。駅校内には巨大な小田原提灯が吊ってあった。宿場町である小田原では旅人が携帯するのに
便利なようにと、同地在住の職人・甚左衛門が、蛇腹形状で折りたたんでの携帯がしやすいように作ったのが最初といわれる。
現在、提灯屋は2軒しかなく、需要がないので後継者が育たない危機的状況である。



ひものを買うべきかどうか思案する。右はリカちゃんハートかまぼこ。



懐かしい冷凍みかん、まだあるんですね。弁当、ビールを買って、18時8分のひかりに乗る。



惣菜店で金目鯛の煮付けを買う。やっぱり美味しい。弁当は焼肉弁当、これも美味しい。
やっぱり列車で弁当を食べるというのは幸せなことだと思う。



名古屋でのぞみに乗り換え、結局、金目鯛とあじの干物を買って帰った。



体が大きく保冷箱に入れず、台座になった。





inserted by FC2 system