16 国府津駅から藤沢宿まで
16 国府津駅から藤沢宿まで





2017年4月16日(日)晴れ。ホテルの朝食は6時半からだが、7時発の電車に乗らなくてはいけないので、
混むことを予想して開始10分前に行った。すでに準備されていたので、並ばずに食べることができた。6時30分
になると一斉に来るので、混雑していた。



1泊朝食付き5000円程度で、快適でした。さて、今日は沼津から歩くのではなく、東海道線に乗って・・・



旧東海道のクライマックスは箱根であるが、沼津→箱根(芦ノ湖)、箱根→小田原を1泊2日で行った方が合理的で良かろう
ということで、その区間は次回にして、今回はその先回りをすることとなった。



熱海で10分くらい停車していたかな、この海の深いところには食べそこなった金目鯛がいるんだろうな。



8時5分に国府津駅(こうづ)に到着。沼津から1時間もかかった。JR西日本のモデルは、伊藤蘭であるが、
JR東日本の大人の休日は吉永小百合でした。



駅からすぐ、国道1号線に出る。





ついにゴールの日本橋まで77キロか。



駅からしばらく歩くと、従是大山道の道標があった。主に江戸時代の関東各地から、相模国大山にある大山阿夫利神社への
参詣者が通った古道である。大山は雨乞いに霊験のある山として雨降山(あふりやま)とも呼ばれ、昔から農民たちの山岳
信仰の対象とされてきた。



押切川を渡って、しばらくすると・・・



右手の旧道へ入っていく。路傍に道祖神があった。



左の鮮やかな緑の家は、松屋本陣跡です。このあたりは小田原宿と大磯宿の中間に位置し、その距離が16キロと長い上、
押切坂、酒匂川を手前に控えていることから、間の宿として休憩所が設けられ、大友屋、蔦屋、釜成屋など多くの茶屋
や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて大変賑わっていた。その中心的存在が松屋本陣であった。
右は江戸から18番目の二宮の一里塚。



(右)今度は国道1号線の北側に旧道が残っていた。



右は等覚院の藤である。1623年家光上洛の折、当地に籠をとめて、この藤の花を見物したという。残念ながらやや遅かった。



すぐ南は海であるが、この辺りは梅沢海岸という。



JR二宮駅に到着。といってもこれといって何があるわけではない。



駅前に「ガラスのうさぎ像」があった。児童文学作家・高木敏子によるノンフィクション文学である。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲、主人公である敏子の母と妹を奪った空襲の焼跡には、ガラス工場を営んでいた
敏子の父が作ってくれたガラス細工のウサギが歪んだ形でありながら残っていた。そして、その父も疎開途中の神奈川県二宮町で
アメリカ陸軍のP51ムスタングの機銃掃射に遭い、敏子の目の前で命を落としてしまった。



このまま1号線沿いを行ってもおもしろくないので、くず川を渡ってすぐ右へ曲がる。



川沿いに未舗装の道を歩く。やはり1号線沿いよりずっと心が落ち着く。



しばらく歩くと、大磯ゴルフコース(プリンスホテル経営)があった。ネットで見ると、そんなに高くないようだ。



そしてその東側には大磯テニスコートがあった。今が、気候的にはベストシーズンではなかろうか。



大磯プリンスホテルを見て、国道1号線に戻る。
西武グループによるホテル・リゾート事業は、国土計画が主導して計画・立案した箱根・軽井沢などへの観光地への進出を
図ったのが源流である。社名は、敗戦に伴い行われた皇籍離脱後、占領軍によって没収された旧皇族の土地が日本国との
平和条約締結によって日本政府に返還された後、安価で購入し、その土地にホテルを開業した事に由来している。



旧吉田茂邸を見学する。吉田茂は板垣退助の腹心であった竹内綱の五男として生まれたが、父親が反政府運動で投獄されたため
子がいなかった親友の旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会横浜支店長←アヘン密輸・武器商人)
吉田健三の養子となる。横浜の屈指の大富豪で、その資産で手に入れたものの一つがこの大磯の広大な土地と邸宅であった。
吉田が11歳のとき、健三は亡くなり、吉田茂は莫大な遺産を相続し、この大磯の土地も邸宅も相続したわけである。
右の兜門はサンフランシスコ講和条約を記念にして京都から宮大工を呼んで建てられ、この門だけで費用は1戸建てが10軒分らしい。
参考文献『吉田茂と岸信介』安井浩一郎著



戦後、鳩山一郎に組閣の大命が下る数時間前、GHQは鳩山を公職追放をし、そこで鳩山の代わりに吉田茂が抜擢された。
戦前の吉田は外務次官や駐英大使を歴任し、アメリカやイギリスなどの自由主義国との関係を重視した。マッカーサーの占領政策に
協調し、親米路線を取った。一言でいうと、アメリカに国防を任せ、戦後の復興を最優先にしたわけだ。



この邸宅でマッカーサーの日本国憲法を練ったとのことだが、これは一言でいうと「下請け的事務処理」と思われる。
当初日本側から示された憲法改正案は明治憲法と大差がなく、内部から思い切った改正案は出せなかった。特に天皇の地位を
何ら変更していないということがGHQを激怒させた。そしてマッカーサーは新憲法指針を示し、GHQが「天皇は国民のシンボル」
「戦争放棄」をうたった独自の憲法案を出した。これには吉田茂も愕然としたが、昭和天皇よりも偉い絶対的権力者の
マッカーサーの意見は受け入れるしかなかった。
初代大統領ワシントンを初め、ベンジャミン・フランクリン、ジャクソンなど建国の父はフリーメーソンが多かった。
彼らの思想は「自由」「平等」「友愛」であり、それは独立宣言、合衆国憲法に反映された。いわばアメリカ自体がフリーメーソン
思想の産物であった。(それは1ドル紙幣の不可解な図柄を見れば、その謎が解けるものと思われる。)そして、約150年後、
フリーメーソンのマッカーサーは日本占領に同じ思想を取り入れた。
戦前の明治憲法では主権者は天皇であり、国民は臣民に位置付けられた。基本的人権や自由は留保事項が付けられ、法律による制限
も可能であった。これに対しGHQは国民主権を打ち出し、人権をすべての人間が生まれながら平等に持つとした。
戦前は天皇を中心に元老や軍部が意思決定を行い、国民や国会は下に置かれた。一方、戦後は憲法の下に行政、立法、司法が置かれ
天皇はシンボルとなった。これ自体は決して悪い事ではない。新憲法で日本の女性は初めて参政権や財産権を与えられ、思想や言論、
婚姻の自由も保障された。不幸なのはそれが占領下においてなされ、日本人の手で導入していないということである。
参考文献『1945日本占領フリーメーソン機密文書が明かす対日戦略』徳本栄一郎著



1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和条約が締結、翌年の条約発効で日本の独立が回復され、6年余りに及んだ
GHQによる占領も終わった。この講和条約と同じ日にサンフランシスコ郊外のプレシディオ(アメリカ陸軍基地施設内)で、
日米安全保障条約を結ぶ。独立後も引き続き、アメリカ軍の駐留を認めるものであった。この内容は締結まで国民にはほとんど
知らされておらず、署名も吉田茂が一人で行った。ソ連に何らかの策を講じる時間を与えないために、講和条約と同日に結ぶ
ことになったという。吉田の英語のスピーキングはいまいちだったという。SF講和条約の受諾演説は、実はアメリカ側から
ディグニティのため、日本語でやろうということなったということだ。白洲次郎の話をそのまま真に受けるのはどうかと思う。
参考文献『1945日本占領フリーメーソン機密文書が明かす対日戦略』徳本栄一郎著



沼津でもアメリカ嗜好のミニ開発があったが、ここ大磯のそれはまるでビヴァリーヒルズのような一画であった。
右は伊藤博文の別邸であるが、閉鎖されていた。




見事な松並木です。



広重の大磯宿は、松並木が立ちならぶこの地点としました。



上方見附:見附とは本来、城下に入る見張りの門であるが、江戸時代の宿場の出入り口にも見附を置き、宿場を護る防御
施設として造られた。街道を挟んで両側に台形状に石垣をもって造られ、高さは1.6mほど、宿場の京都側にあるものを
上方見附、江戸側にあるものを江戸見附と呼んでいる。この見附は平和な江戸時代には防御施設としての役目はなくなり、
旅人に宿場の出入り口を示す役目を果たすようになった。



太平洋岸自転車道(たいへいようがんじてんしゃどう)は、太平洋沿岸に整備されている自転車道群である。
千葉県銚子市から和歌山県加太海岸(和歌山市)まで、全長1200キロメートルにもおよぶ太平洋岸沿いの大規模なサイクリングロード
構想で、供用は384キロに過ぎない。最近の自転車ブームで、今日も国道1号線ロードサイクラーが多い。



湘南発祥の地「大磯」の碑。神奈川県南部の海岸地域を湘南と呼ぶのは、中国の洞庭湖の南岸地域である湘南と風景が似ており、
そのことを詠んだ詩碑が庵の庭に立っていることが由来となっている。右は、練り物店の大磯井上。歩きながら食べればよかったと後悔。



左は、同志社大学の創設者の新島襄終焉の地の碑。ここ大磯の百足屋旅館で病気療養していたが、47歳で亡くなった。
右は、大磯照ケ先海水浴場の碑(大正4年5月建立。大磯に別荘を構えた海軍・陸軍軍人、政治家である樺山資紀氏の筆)があった。
海水浴は医療として始まり、海水浴の効用を蘭書で知った元軍医総監松本良順が大磯に宿泊した折に大磯海岸を訪れ、
海水浴場の条件に合致することを確認した。



左は、明治24年創業の和菓子屋新杵。栗蒸し羊かんと西行饅頭が名物である。西行法師は平安時代にここを訪れている。
右は、大磯の本陣跡あたり。



大磯は意外と食べるところが少ない。冨久寿司という寿司屋でランチ並みを頼んだ。淡泊な感じのお寿司でした。





この緑が多い道はすごく良い。車がほとんど通らないというのは心が安らぐ。自転車のサイドにサーフボードを乗せている
姿を見かけた。この道の東端あたり、化粧坂の一里塚跡があった。



そして一里塚を過ぎてすぐに、車屋という風情のあるそば屋さんがあった。海老天がうまいらしい。ここで食べたら良かった。



江戸時代には大名が下馬して参詣したという高来(高麗)神社。高句麗の高麗大神を大磯に祀ったという。



来週は、高麗山神輿がある。この神輿は250キロあり、それを見物客を含め、約50人が綱で山上まで引っ張りあげるそうです。
したがって、ジグザグでなく、最高約60°の絶壁を一直線に進むらしいです。



広重の平塚宿は、高麗山であるのでわかりやすい。高麗山は標高約160m、相模湾より相模一国をことごとく見渡すことができ、
三峰からなる。江戸時代末期までは山全体が高麗寺の霊領域として保護され樹木の伐採が禁じられていた。




いよいよ平塚市中心部に入っていく。



神奈川銀行のところが、平塚宿本陣跡です。その少し東に行ったところに脇本陣跡もあった。



崇善公民館(旧平塚市議事堂〈昭和25年竣工〉)。



平塚宿の江戸見附。



湘南クッキー。平成21年(2009年)からあるそうで、自販機中心の営業だそうだ。



こんな平塚の中心部に、金目鯛煮付け御膳(1,380円)の店があった。時間は午後1時30分、出てくるのが遅いんだよ。



左は馬入橋(ばにゅう)の石碑。大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で馬入橋が倒壊、交通が途絶、地元の努力
で渡船が運行されてたが、数日後の豪雨で流失、中断、9月17日、陸軍第15師団(豊橋:茅ヶ崎側を担当)と第16師団
(京都:平塚側を担当)所属の工兵隊が急きょ派遣され、架橋工事が開始、10月3日に完成したという。



相模川を渡る小田急ロマンスカー、橋を渡るとそこは茅ヶ崎市。



新湘南バイパスをくぐると、東海道名物という「でかまんじゅう」の和菓子店があった。一番大きなもので縦32cm横22cm
という超巨大サイズで3,780円で、1日1個製造するそうです。



日本橋から約60キロ地点あたり。「南湖の左富士」の石碑があった。これは歌川広重が1832年に東海道を旅し、続々と
東海道53次シリーズを発表するなかの一つに「南湖の松原左富士」がある。東海道のうち、江戸から京都に向かう途上で
富士山が左に見えるのは、吉原と、ここだけで、茅ヶ崎の名所の一つとして知られたという。残念ながら今日は見えず。



茅ヶ崎でも松並木がところどころに見られる。右は目を引いた白い洋風建築、モデルハウスのようです。



茅ヶ崎の中心部に来ると、人通りが激しくなった。今日は大岡越前祭ビッグパレードが開催されているようです。
8代将軍徳川吉宗が行った享保の改革を支え、江戸町奉行などの要職につき、あの「大岡裁き」の大岡越前守忠相を輩出した
大岡家は、茅ヶ崎の堤村を領地として治め、茅ヶ崎市北部にある浄見寺が大岡家代々の菩提寺であることが茅ヶ崎市との関係。
右の写真は、日本橋から14番目の茅ヶ崎一里塚。



左はJR相模線。茅ヶ崎駅から相模川に沿って北へ、厚木、町田方面に向かう 終着は橋本駅で横浜線に繋がり八王子まで行ける。



ようやく藤沢市に入った。右は大山街道入口(伊勢原市の大山にある阿夫利神社)。



右は四谷不動(大山道標)。ここは東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられていた道標で、江戸時代には町人の大山参詣が
盛んであった。この四谷辻には多くの茶屋が立ち並び、賑わっていたそうです。辻堂駅もここが由来と思われる。



四ッ谷の交差点で、県道44号線へ入る。



藤沢宿の京見附まで来た。右は小田急・藤沢本町駅付近の江ノ島線です。



義経は頼朝に追われ奥州まで逃げたが、1189年に衣川(岩手県奥州市)で自害。腰越(鎌倉市)で首主検の後に浜で
捨てられた義経の首は潮にのって川をさかのぼり、里人に拾われてこの井戸で清められたと伝えられる。



左は朝鮮通信使も泊まったいう蒔田本陣跡です。現在はラーメン店です。右:ようやく藤沢のゴール地点が見えてきた。17時5分。



遊行寺橋(現:大鋸橋)の地点が、広重の藤沢宿。絵の左手(南側)は江ノ島一の鳥居があった。これは江ノ島弁財天の鳥居
で、東海道と分かれ鳥居をくぐれば、江ノ島道であった。



藤沢宿は1601年に東海道の宿場となり、戸塚宿や川崎宿よりも古い。大山道や江ノ島道が分かれる観光地として賑わい、
また周辺農村からの物資の集積地として繁盛した。



藤沢から新横浜まで行くのだが、新幹線切符には横浜市内までの在来線区間まで含まれているから、藤沢から平塚までの切符を買う。
やはり首都圏は人が多い。確か当初19:49分新横浜発の便の指定席を取っていたが、予定より早くなったので、2人横並びが可能
な便に変更しようとしたが、18時台はなく、19:09分ののぞみ59号となる。藤沢駅のみどり窓口で変更すべきであった。



新横浜での駅弁は、崎陽軒のシューマイ弁当で決まり。これはベストセラーなだけあって、ごはんもおいしくて本当によく出来ている。





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