17 藤沢から新子安まで
17 藤沢から新子安まで





2017年6月10日(土)晴れ。いよいよ今回の旅立ちでゴールとなる。右は構内に飾ってあるスズキワゴンRのハイブリッド車
税込み135万円。次の車はこんな軽自動車がいいかな。



6時23分発ののぞみ100号に乗る。駅弁は、なだ万の料理人田中博敏の日本の味博覧を1000円奮発して購入。これは美味い。お薦め。



新横浜駅に8時40分に到着。



横浜線で横浜へ。左の写真でわかるように、線路幅は丘を切通して造成している。



そして国府津行きの東海道線に乗る。そして藤沢駅に着いたのが9時30分。



駅から歩いて10数分で、旧東海道に着き、この境川はかつて、相模国と武蔵国の国境とされた。現在でも上流部(町田市南部あたり)では
神奈川県と東京都の都県境になっている。

    

さあ、いよいよ出発です。



出発してすぐに、時宗総本山遊行寺があった。時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派。開祖は一遍。
一遍上人が念仏をとなえながら全国各地(北は岩手の陸奥から南は九州大隅)を布教のために遊行したところから『遊行宗』
とも呼ばれ、一遍上人も『遊行上人』とも呼ばれている。
時宗は、念仏を中国から伝えた善導大師が時間ごとに交代して念仏する弟子たちを「時衆」と呼んだ事が起源である。
善導は、中国浄土教(中国浄土宗)の僧であり、浄土真宗では、七高僧の第五祖とされ、日本の法然・親鸞に大きな影響を与えた。
またここには、小栗判官の墓所があった。15世紀初期、相模の横山大膳が囲っていた照手姫を見初め、結婚の約束を交わすものの、横山に
酒に毒を盛られ、家来も殺されてしまう。なんとか生き延びるも歩行困難であったが、幸いに藤沢の遊行寺(清浄光寺)の大空上人の助けで、
地車に乗せられて東海道を西進する。そして熊野の湯の峰温泉のつぼ湯で、全快する。この話は熊野街道を歩いたときに知ったわけだが
まさか、この遊行寺でその墓所があるとは思わなかった。



この木、何の木、気になる木♪
左は樹齢700年といわれる大銀杏である。木の周囲にはベンチがあった。看板に赤字で「踊り念仏」というのが気になった。
踊り念仏の元祖は平安時代の僧・空也上人によって始められた「空也念仏」がルーツであり、瓢箪や鉢を叩き、鉦を鳴らして念仏を唱えて
踊ったのがはじめとされている。法衣に身を包んだ僧侶や武士たちが輪になり念仏を唱えながら踊るスタイルであり、youtubeにも出ている。





さて、街道に戻り、左は藤沢宿の江戸側の出入口だったところ、右は一里塚跡である。



並木茶屋 ? ネットでは知る人ぞ知るもやし炒めの名店だそうですが・・・。



今日の昼過ぎまでの行程です。



浅間神社近くの藁葺き屋根の門のある豪邸は、江戸時代は名主であったと思われる羽太家。
明治初期には戸長、昭和初期には、村会議員を務めたという。



左:ここらへんを歩いているとやたら、宝ビスケットの看板を見つけた。藤沢市に本社があるが、関西人にはなじみがない。
戦後の創業当初はパンを製造していたが、昭和27年に砂糖と小麦粉の統制が解かれた後は、ビスケット製造一筋だそうだ。



珍しい車のコンビ、左はアメ車のエルカミーノ、右は昭和のクラウン、車道楽の方のようです。



左:1号線沿いにあるこの黄色の瀟洒な建物は、戸塚崎陽軒 嘉宮という広東料理レストランです。シューマイの会社ですが、
このような高級レストランもやっておられるそうで、ランチでも3000円くらいはするようです。右は、中国より伝来した道教に
由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔で、庚申の本尊である青面金剛が彫られている。



また宝ビスケットが出てきた。ここらへんで、ひと休みする。11時過ぎ。



南側を望むも、海は見えない。街道は南側の旧1号線になる。



庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。



ローソンの駐車場前に、戸塚宿の京口見附跡が残されていた。



街道が右にカーブするところに「戸塚」の地名の由来になった富塚八幡宮があった。



戸塚宿には本陣が2軒あった。そのうちの一つが、澤邉本陣跡。



向かいには、きじま本陣という和食料理店があった。お昼時だったので食べようか迷ったが、少し高めだったのでやめた。



左はもう一つの本陣であり内田本陣跡。マンホールの絵は、箱根駅伝。そういや戸塚中継地点ってあったよね。



ちょうど正午、偶然、駅前の街道沿いに良さそうな居酒屋がありました。



相方は限定10食のサービス定食。鰈の煮付けと鰹の刺身がついて、750円という信じられない値段、私はへそ曲がり
のなので、さばの塩焼き定食800円を頼んだのが、大きな鰈をみて後悔する。さばも旨かったのだが。



主人は、京都の設計会社に勤めてたそうだ。なぜか戸塚なのかは不明。このお店は魚好きには絶対におすすめ。



このエレベーターに乗って、戸塚大踏切デッキに上がる。デッキが出来るまで、1時間のうち57分も遮断機が下りていたという。



2015年3月25日に大踏切が閉鎖となった。吉田茂首相も業を煮やし、昭和28年、開かずの踏切を避けるため国道1号線の
不動坂交差点から大坂上までのバイパス道路を建設し、吉田首相が「ワンマン宰相」と呼ばれていたことから通称「ワンマン道路」
と呼ばれるようになった逸話が地元にあるという。



戸塚駅西口第1地区第二種市街地再開発事業:事業期間平成9年3月より開始、平成25年3月に事業完了。再開発の目的は、
バスセンターなど駅前の整備と密集木造住宅街の解消という防災上の街づくり。商店街からは100店舗内の半分の50が
トツカーナに入ったが、個人店の経営は厳しいらしい。またエリア外の商店街は、人の流れが変わるため殆どが反対したという。
右の写真でもわかるように、きれになった反面、人通りは少ない。



柏尾川を渡ると、そこは広重の戸塚宿のポイントであった。



早朝に日本橋をたった健脚が、戸塚に到着する頃の夕景が描かれている。「こめや」の看板が目立つ茶屋は、米で作った餅菓子で
有名な店で軒下には伊勢参りをする一団(講)の名前を記した木札が掛けられている。図の中央に描かれている灯篭脇の石柱には
「左りかまくら道」と彫られ、鎌倉へ行く分かれ道を示している。



フォルクスの前に戸塚宿の江戸方見附跡があった。右の道路標識は"TOKAIDO"のはずが、"TOKIO"になってしまっている。



ブリジストン横浜工場、ここでは化工品、免震ゴム(ビルや橋などの構造物の下に敷いて、地震の揺れを和らげる)等を生産している。



ここから街道が北東方面となる。ところで戸塚といえば、あの戸塚ヨットスクール、まだ健在のようです。→参照



坂道を駆け上っていくと・・・



東戸塚のニュータウンに出た。オーロラシティというらしい。西武やイオンが入っている。



品濃坂を上っていくと、果樹園などがあり、昔の街並みが残っている。



この先がオーロラシティで、横須賀線の東戸塚駅と直結している。



青梅の季節です。昔、子供のころ、親が梅酒なんか仕込んでいたなぁ



品濃一里塚、街道の両側に現存し、江戸時代の面影を残している貴重な一里塚である。



左手の一里塚の奥に広場があり、ここはパワースポットであると感じた。



一里塚を過ぎると、また坂。



坂の途中に、焼餅を売る茶屋があったので、焼餅坂という。



焼餅坂を登りきったところに、境木地蔵があり、ここが相模国と武蔵国の国境とされた。





これが境木地蔵。



左は、茶屋本陣であった若林家。



旧東海道を東京から西へ向かう際、最初の急勾配として知られる権太坂である。箱根駅伝では、国道1号線の方を通る。



横浜横須賀道路を横断する。



右は権太坂改修記念碑、ということはまだ権太坂が続いているということか。



坂を下りきったところで、左に曲がり、コンビニでトイレ休憩。



相方は、『紙うさぎロペ』に出てくるアキラ先輩のキャラクター(左の方)によく似ていると思う。



再び帰らない一日の積み重ねが、人間の一生である。(樹源寺で)街道歩きは一時たりとも時間を無駄にできないのです。





ここで旧東海道は国道1号線に合流。しかしまぁ、あんな小山に住宅街が無理に造成されている、見るからに不安定そうではあるが。



道路の向こうに見えるのは、保土ヶ谷宿の上方見附跡です。そして茶屋本陣、建坪63坪、部屋数8。



旅籠屋(本金子屋)跡。



ここで街道は1号線から離れて北東方向に進む。



JR東海道線の踏切を渡って、金沢横丁道標4基を見る。



左は問屋場跡、街道は環状1号線に合流する。



環状1号は、なかなかいい感じの街並み。



相鉄・天王町駅まで来ました。





ここ天王町駅前広場が、広重の保土ヶ谷宿です。



今日は、どこかで祭りがあるのかな。



右手にランドマークタワーを見ていると、縁日会場に突入した。



祭りは橘樹神社の天王祭りという夏祭りでした。



次に我々の目の前に現れたのが、洪福寺 松原商店街でした。



懐かしい、昭和の匂いがする。昔、私が住んでいた尼崎の商店街を思い出した。



横浜No.1の激安商店街らしい。昭和27年頃、この近辺に7〜8軒のお店があって『松原安売り市場』として知られたのが最初。
ほぼ200メートル四方に総店舗数98店。規模は大きくないが集客力は休日の平均人出2万5千人、平日2万人とすごい。
年末には1日で10万人が押し寄せ、「ハマのアメ横」と呼ばれている。



追分というのは、東海道と八王子道の分岐点です。



浅間神社まで道は真っすぐ、遠くから大きな森が見え、神社の森かと思ったが、実体は、左の崖の上の木々であった。



浅間下の交差点で大きな街路に合流し、首都高速道路の高架をくぐる。



ここでも祭りの気配が。



ここより南に行くと、横浜駅。



ここが神奈川台関門跡。現在と幕末。



右は江戸時代から続く割烹田中家。ここで坂本龍馬の妻おりょうが一時働いていたそうだが、プライドが高く、
同僚の女中からは総スカンだったそうである。



ここを広重の神奈川宿のポイントとする。昔は、すぐ海であった。



金毘羅宮を過ぎ、旧道を出て、京急・JR東海道線の線路を横断する。



この辺は神奈川駅付近、線路を横断すると、宮前商店街が大変賑わっていた。




洲崎大神のお祭りであった。やはりこの辺りは6月中旬がお祭りの時期のようです。



国道15号線に出る。



運河を渡って北上し、旧道に入る。



成仏寺、安政6年(1859年)、開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われ、ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裏に
住んだという。ヘボンはヘボン式ローマ字で知られ、日本最初の和英辞典を作った。ヘボンは、ジェームス・カーティス・
ヘップバーンといい、ヘップバーンの発音がヘボンと聞こえたそうである。また横浜で塾を開いたが、それが現在の
明治学院大学となっている。ブラウンは聖書や讃美歌の邦訳をしていた。



松林が残る神奈川宿歴史の道を通り、横浜市神奈川地区センターに寄ってみる。



先程、歩いてきた広重の神奈川宿です。すぐ海だったことがわかる。



横浜駅も海であった。




小田原からの鳥瞰図です。



高札場もあった。京急線が旧東海道のそばを走っている。これからは品川あたりまで京急沿いとなる。



神奈川にも浦島太郎伝説が残っているという。三浦の住人・浦島大夫の息子太郎は澄の江の浦から竜宮城に行き、
3年過ごして帰ってみると、現世では300年が経過していたという。



今日の宿、東横イン新子安駅前にようやく到着。18時前でした。



東横インの良いところは、この広いダブルベッド、また鉄道ファンにはたまらない眺めである。



さてさて、反省会だ。まずはビールとごぼうのサラダ。おいしい。



刺身の6種盛り、いわしのから揚げ、うますぎる。



そして念願の金目鯛の煮付けと、非常に飲みやすいスッキリの獺祭。期待していないと、巡りあえるものだ。これ人生の教訓。



さあ、寝ます。





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