18 新子安から日本橋まで
18 新子安から日本橋まで





2017年6月11日(日)くもり。いよいよ最終日となる。東横インの朝食はパンとコーヒーのみが6時30分からで、おにぎり
、味噌汁、おかず等の朝食は7時からとなっている。昔一度泊まったことがあるが、やっぱりここの朝食はイマイチの感あり。



7時30分出発。国道15号線を歩く。京浜国道というが、明治時代の日本橋と横浜港を結ぶ、明治1号国道の通称名である。





首都高速神奈川7号横浜北線の下をくぐる。この高架道路は2017年3月18日に開通したから、出来立てだ。
右はキリンビール横浜工場。ここが恐らく日本最初のビール工場だろう。1870年にアメリカ人のウィリアム・コープランド
が日本で初めて大衆向けのビールを醸造・販売したジャパン・ブルワリーの経営を受け継いで、武器商人のグラバーが三菱の岩崎家と
タッグを組んだのがはじまり。麒麟麦酒は1907年(明治40年)に創業。ここの工場見学は人気で3ケ月待ちらしい。



右は宮大工の技が光る昔ながらの銭湯、まるで道後温泉のような朝日湯温泉、と浮かれていたが、すでに生麦3丁目に
来ているが、あの生麦事件の現場が現れない。おかしいと思ったら、旧東海道は国道15号でなく、それより南側の
街道であることが判明。キリンビールあたりから国道15号から分岐していることがわかった。



1862年9月14日に、武蔵国橘樹郡生麦村付近において、江戸から京都に向かう薩摩藩主島津久光400人の行列に乱入した騎馬の
イギリス人たち(4人)を、供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。4人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいた
とあるが、観光目的で川崎大師に向かっていたともいわれる。行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗
の彼ら4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、彼らは、「わきを通れ」と言われただけだと思いこんだ。
しかし、行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進んだ。鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の
乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの声に、さすがにどうもまずいとは気づいたらしい。しかし、あくまでも下馬
する発想はなく、今度は「引き返せ」と言われたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いた。
その時、数人が斬りかかった。4人は驚いて逃げようとしたが時すでに遅く、リチャードソンは深手を負い、桐屋という料理屋の前から
200メートルほど先で落馬し、とどめを刺された。マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人に「あなたを助けることができない
から、ただ馬を飛ばして逃げなさい」と叫んだ。ボロデール夫人も一撃を受けていたが、帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷であり、
真っ先に横浜の居留地へ駆け戻り救援を訴えた。マーシャルとクラークは血を流しながらも馬を飛ばし、神奈川にある当時、アメリカ領事館
として使われていた本覚寺へ駆け込んで助けを求め、ヘボン博士の手当を受けることになった。この事件が原因で薩英戦争となる。
当時の『ニューヨーク・タイムズ』は「この事件の非はリチャードソンにある。日本の最も主要な通りである東海道で日本の主要な貴族に
対する無礼な行動をとることは、外国人どころか日本臣民でさえ許されていなかった。条約は彼に在居と貿易の自由を与えたが、
日本の法や慣習を犯す権利を与えたわけではない。」と評している。



下町のいい雰囲気する生麦魚河岸通り。



味道・天金、天ぷらと刺身が美味いらしい。いつか行ってみたい。さて、この高架下はどうなっているのか?



その前に、すぐ南の鶴見川を一瞥、どうやら高架は鉄道のようであるが。



なんか昭和30年代の雰囲気か、生まれてないが。



JR鶴見線の国道駅でした。



1949年(昭和24年)の黒澤明作品『野良犬』など、しばしば映画・ドラマのロケ地として使用される。高架下が異様なムード
を醸し出す駅として、紹介されることもある。駅構内は建設当初から、全く改築されていない。国道側の外壁に、第二次世界
大戦末期におけるアメリカ軍機による機銃掃射の銃弾の痕があるとのことだが、気が付かなかった。



赤い囲みのところが機銃掃射の銃弾の痕とのことです。



さて旧東海道は、国道15号線の北側となる。



これまた懐かしい看板「蛇族まむしや」「ごはん」。右は鶴見の茶屋があった跡。



京急・JR鶴見駅前まで来ました。



名主・佐久間家、鶴居堂の跡地があるが、その跡形も無い。



信楽茶屋は、現在はラーメン店になっていた。



鶴見橋関門旧跡:安政6年(1859年)6月横浜開港とともに神奈川奉行は外国人に危害を加えることを防ぐため、
横浜への主要道路筋の要所に関門や番所を設けて、横浜に入る者をきびしく取り締まった。



鶴見川を渡り、市場下町に入る。



庚申塔を過ぎ、右手に市場一里塚が見えてきた。



市場一里塚は日本橋から5里目にあたり、日本橋から初めて現存する一里塚らしいが、ということはこの先は無いわけか。
右は横浜熊野神社。



京急・八丁畷駅まで来ました。八丁真っすぐな道という意味です。このとおり、まっすぐな道です。





京急の踏切を渡って、線路の南側を行く。



松尾芭蕉は元禄7年(1694年)、江戸深川の庵から出立し、郷里の伊賀への帰途、川崎宿に立ち寄っている。そこで
惜別の句を作っている。「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」



右が、川崎宿の京入口。



川崎の街中に入ってきた。左は以前に東京から川崎まで歩いたときに泊まった新しいタイプのホテル。



詩人佐藤惣之助は明治23年生まれ、昭和17年5月に52歳で世を去る。生家は川崎宿の上本陣佐藤家で、右の写真が跡地。
歌謡作詞では「赤城の子守歌」「すみだ川」などの不朽の名作を作詞、我々関西人にはタイガースの「六甲おろし」かな。



宋三寺、墓地には大阪方の牢人で1615年に川崎に土着した波多野伝右衛門(大阪夏の陣で豊臣方の武将で、川崎で馬込屋
という油商を営んだ)一族の墓や、川崎宿貸座敷組合の建立した飯盛女(遊女)の供養碑がある。(右写真)



東海道川崎宿交流館に入ってみる。平成25年10月にオープンしたばかり。



左は通ってきた市場一里塚で、右は川崎宿の東端、東海道中膝栗毛にも出てきた茶粥で有名な万年屋がある。



左は焼け野原の川崎、右:京急が高架化され、踏切渋滞が解消されたのは昭和41年でした。



奈良茶飯風おこわが、となりの川崎屋東照で食べれるそうだ。



左は、下(しも)の本陣と呼ばれていた田中本陣跡。



左は、万年屋があったところ。右のジオラマでよくわかる。



JR鶴見線を越して、いよいよ多摩川を渡る。江戸時代は橋が無く、渡しであった。(六郷の渡し)



いよいよ東京都に入った。江戸時代には考えられないゴルフの打ちっぱなしが河川敷で行われている。



広重の川崎宿は、江戸側で東に向けて撮りました。





橋を渡ってすぐの東京都大田区の街並み、鶴見→川崎の延長線で下町が続いている。



六郷神社でお祭りをやっていた。やっぱりこちらは6月がお祭りのシーズンのようです。



あと17キロか。




平日だったらこのような賑やかな光景は見れなかったな。今日も退屈しない。



蒲田のうなぎのすずきは旨いらしいが、前に三島で食べたから通過する。また前方からお神輿がやってきた。




わっしょいと運んでいたと思うと、急に止まってお神輿を思い切り揺らし始める。よく見ると真ん中に女性が頑張っていた。




時刻は11時20分。ここらで昼時とし、「にくすた」塊肉ステーキの看板に魅せられ、入ってみる。サラダバーとか
いろいろ頼んでしまうと高くつくので、小市民は最低価格のハンバーグを頼んだ。



京急・蒲田駅。前方の高架は羽田空港線。2012年に全面高架化となった。少し離れた所にJRと東急の蒲田駅もある。



大田区総合体育館ではNHK学生ロボコン2017がやっていた。入場は予約制で残念ながら入れず。



梅屋敷駅の辺りは、都市計画道路の拡幅が行われている。用地取得したところは緑のネットフェンスで囲っている。
こういう道路拡幅により、旧東海道の面影が消えていくわけだ。これも時代の変化なので仕方がないかもしれないが。



大森警察署前で、旧道に入る。



ここ大森で一里塚跡を発見、これがおそらく最後の一里塚跡でしょう。大森は海苔で有名。



たいやき屋もあれば、オープンしたばかりの洒落たパン屋もある。



トイレ休憩のために入った大森スポーツセンターで空手の大会が行われていた。



創業明治30年天仲かぁ、ここも入ってみたいなぁ。右:前方に見えるのは鈴ヶ森刑馬遺跡である。



慶安4年(1651年)、江戸幕府によって設けられたこの刑場は歌舞伎や講談に登場する丸橋忠弥、平井権八、
八百屋お七の処刑地として有名である。境内には処刑に使用された台石や井戸、供養塔が点在する。
右の写真:左の□は磔台、丸橋忠弥(由井正雪の乱)などがこの台の上で処刑された。真ん中の穴に角柱が立てられ
その上部に縛り付けて刺殺された。右の○は火炙台、八百屋お七を初め、火炙りの処刑者は皆この石の上で生きたまま
焼き殺された。真ん中の穴に鉄柱を立て、足元に薪を積み、縛り付けて処刑されたのである。
お七は以前火事にあって一家がお寺に避難した折り、一人の男と出会い恋をする。やがて一家は再建された家に戻るが、
男のことが忘れらず、その思いがつのって、もう一度火事が起きたら会えるかも知れないと思い、放火をしたと伝えられる。
この火事で3500人が亡くなり、江戸の10大火災に数えられている。



浜川橋(涙橋)を渡る。先程の処刑場に送られる罪人を親族らが、ひそかに見送りにきてこの橋で共に涙を流しながら
別れたということからそのように呼ばれるようになった。



鮫州駅近く、江戸時代に網元だった家があるはずなのだが、どうやらファミマになったようだ。残念。



京急・青物横丁駅付近まで来ました。左は品川寺(ほんせんじ)です。



商店街も青物横丁商店街から品川宿場通り南会へと東へ進むごとに名前も変わっていく。



この城南信用金庫が、脇本陣跡だったところで、そこから少し東に、本陣跡(右の写真)があった。



品川宿の旧道もここで終わり。この京急の線路を越すと大都会となる。





JR線路敷は、大規模に開削されたことがわかる。



京王、キャノン、マイクロソフト・・・巨大ビル群。



広重の品川宿は、変貌の巨大ビルをバックにせざるを得ない。



品川駅、新幹線の停車駅であるのもうなづける。



日本橋まであと7キロ。外国人観光客人気のマリオカート、任天堂は著作権侵害に当たるとして訴えている。



忠臣蔵47人の志士が眠る泉岳寺も東海道からすぐのところにある。



高輪の大木戸跡がありました。東海道から江戸府内の入口として、また南の出入口として設けられた大木戸の跡である。



旧東海道は真っすぐだが、ちょっと寄り道するために左に曲がる。



左に見える建物が福沢諭吉の慶応義塾大学、もともとは島原藩中屋敷だったが払い下げられた。



東京タワーが見えてきた。もともとは放送電波を発信するために昭和32年に着工・33年12月に完工。しかし、
地上デジタル放送移行に伴う電波障害問題が発生、今後さらに超高層建築物が建設されることも踏まえ、
東京タワーの高さでは首都圏域すべての受信電波障害の問題を解決できないと言われ、東京スカイツリーが建設された。



メソニック39(第39メソニック森ビル)、ついに姿を現したか。



左は麻布台に立つノアビル(1974年竣工)、白井晟一設計で硫酸銅で黒く処理され、楕円の形をしている。
なんか異様だなぁ。建築家白井はモダニズム建築全盛の風潮に背を向け、哲学的と称される独自の建築を生み出した。
企業や駐日フィジー大使館が入っているという。




私が見たかったのはフリーメーソンロッジである。植え込みにはわざわざイスラエルから取り寄せた黒御影石が定規と
コンパスのシンボルマークを刻み込んで建っている。しかしなぜこのような一等地にあるのだろうかと調べてみた。



旧日本海軍の将校クラブ「財)東京水交社」は1928年(昭和3年)港区芝1丁目に築地から移転。1935年、地上3F、
地下1Fの赤煉瓦造りの建物が完成。この水交社ビルが東京大空襲でも無傷で残り(爆撃目標から外れていたのではないか)、
戦後、GHQによって丸の内の第一生命ビルと共に真っ先に接収され、そこに日本のメーソンの拠点が置かれた。
水交社は戦後、戦争遂行の一翼を担ったことで、解散させられ、GHQは無料で使っていた。その後、1948年、
『開放団体の財産の管理及び処分に関する政令』が出され、国に没収され、そして1950年売却される告知が出された。
「一般に売却し、最高額の入札者により売却することなるが、学校、病院、宗教慈善団体等に随意契約で売却することも可能。」
メーソンは宗教でもないのに、宗教法人「東京メソニック・ロッヂ協会」を立ち上げ、同年6月30日に売却。
6千万円のところ、500万円で処分されたという。GHQのリビスト少佐が同ビルをロッジにするために1947年から日本の
当局に圧力をかけていたということ。



注目すべきは、水交社ビルと道路をはさみ、真向かいにある「日本聖公会」なる教会の存在である。
現在の「第38メソニック森ビル」の真正面にそれは位置し、近年改築され、比較的新しい教会が二棟、メソニックビルから見て、
左側が「聖アレジオ教会」、右手が「聖オルバン教会」である。オルバン教会前に掲げれた木版の説明書によれば、
「英語による聖公会(英国国教会)の礼拝は、この地で1879年以来続けられています・・・」明治12年から英国国教会の
礼拝が続けられているわけである。このフリーメイソンと関係が深い英国国教会の日本における拠点が水交社の前に位置している
ことが、爆撃目標から外されることと関係があったのではないかと。



森ビルが主体となって再開発を行ったのは1979年ごろ。店子に出て行ってもらうのが多少面倒だったとしてもこれだけの土地を
地上げしてビルを建てるのは、大変な時間と費用がかかったであろう。もともと水交社のあったところに第38メソニック森ビル、
背中合わせの西側の森ビルが所有していたところに第39メソニック森ビルが完成したのは1981年。
同じころ、森ビルは六本木アークヒルズも完成させ、急激に成長する。



東京タワーがより高台の土地を求めて、フリーメーソンに土地の交換を申し入れていたが、断られた経緯がある。
右は東京プリンスホテル、もともと増上寺の敷地で墓があったのだが移転させてまで、ホテルとなった。これも怪しい。





寄り道を終え、旧東海道に戻る。



新橋の手前まで来た。



右の高層ビルの中に人使いの荒いブラック企業・電通本社がある。



老舗の佃煮屋さん玉木屋を過ぎると、やたら中国人観光客がたむろしている。銀座での買い物でここがバスの乗降地点となっている。



毎週土日祝の正午から夕方までは歩行者天国になっているらしい。



ヤマハ銀座店、グランドピアノなんて、夢のまた夢。



ゴールまであと2キロ。心の中でカウントダウンが始まった。



これはありえない。猫が銀座6丁目の看板の上でじっとしている。これどうやら、多頭飼いの変なおっさんが、大人しい猫
を選んで、観光客の集まるような所に置いて、騒いだり写真を撮っているのを遠くから見て楽しんでいるらしい。
警戒心の強い猫が、みずからこんな所に登るわけがない。



日本一、地価の高い場所です。それにしても銀座のお店は、世界のブランド企業ばかりで目がくらみそうです。
それにしても道路の真ん中から見る風景というのは、おもしろい。



京橋は、日本橋と同じ頃の1603年に創建されたという。昭和38から40年にかけて京橋川の埋立工事に
ともなって、撤去されたという。右は大正時代のもの。



ブリジストン本社は京橋であり、明治屋もここが本社。神戸元町店は残念ながら賃貸借契約の終了に伴って
平成25年に閉店になったが、ここは不滅だろう。



バンクオブアメリカ東京支店(支店長、めちゃ美人)、メリルリンチ証券がコレド日本橋のビルの上部に企業の看板が掛かっている。
バンカメは1904年、労働者階級−特にサンフランシスコの北海岸に住むイタリア系移民のための銀行として、SFに
設立された。1949年当時、銀行窓口は午後2時には閉じていた。終業時間の午後5時までにその日の帳簿を締め切らなければ
ならなかったためである。処理の多さに対応するため、バンク・オブ・アメリカは情報処理技術の革新に力を注いだ。
GEやスタンフォード研究所と提携し、現代の銀行では主流となっている業務の集中処理化、小切手の自動処理、口座番号、
磁気インク文字認識(MICR)、クレジットカードなどを開発。これら技術の拡充のおかげで、他の銀行よりも著しく低い管理コスト
で済み、さらなる経営拡大に成功する。1970年代初期まで世界最大の銀行であった。
2009年、メリルリンチをグループ傘下におさめ、アメリカ最大の民間金融機関となった。



いよいよゴールの日本橋が目の前に。



ついに日本橋到着です。16時48分。



広重の日本橋は、当時の面影がまったく無く残念です。このあと両国にある江戸東京博物館にある復元された日本橋を
見たかったのですが、閉館時間が迫っておりあきらめた。



本当のゴールはここ、車道の真ん中にある「道路元標」です。



17時30分発博多行きののぞみで帰る。



東京駅の人気ナンバー1のスペインイベリコ豚重は、最高に旨かった。



20時過ぎ、新大阪駅に到着。もうしばらく東海道新幹線に乗ることもないだろうな。これで終わりです。







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