1京都三条大橋からJR草津駅まで
1京都三条大橋からJR草津駅まで













平成26年11月15日(日)9時20分、起点京都三条大橋より出発。擬宝珠の刀剣傷跡は1864年(元治元年)6月5日、
幕末における新撰組の尊攘派襲撃事件である池田屋事件のときのもの。このとき、9名が斬死したという。



広重の絵と現地を合わせるが、絵は東山の配置が? いや、橋北西詰めのスターバックスコーヒーから撮れば良かったと後で後悔。



橋を渡ったところに「高山彦九郎、皇居望拝の像」があった。高山(1747〜1793年)は群馬県の出身で、18歳のとき
以来、5回上洛したが、京都に出入りするときはこの銅像のように京都御所に向かって拝礼したという。明治維新の勤皇の志士
たちは彦九郎を心の鏡と仰いだという。



三条通りをずっと東へ歩いていく。白川の流れは京都らしい風情があって良い。



ここ白川のほとりに明智光秀の首塚があった。小栗栖の竹薮で農民に襲われて、光秀の首を家来が落とし、
知恩院近くまで来たが、夜が明けたため、ここに首を埋めたと伝えれれている。隣の和菓子店には光秀饅頭が!



左は坂本龍馬とお龍の結婚式場跡とあった。右は蹴上のミヤコホテル、知らない間にWESTIN HOTELになっている。



蹴上の浄水場を通りすぎたところに、車石を展示した広場があった。「平成9年の京都市地下鉄東西線の開業に伴い
廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用し三条通りの四車線化及び歩道の整備事業を実施・・・完成を記念して
三条通りの舗石として敷設されていた車石を利用し、往年の牛車道を模した広場を設置する。」とあった。



ここで三条通から南側の道幅約4mの道に入ります。上りになっており、三条通りよりも高い位置になります。



分岐点には、はじめて「旧東海道」のサインがありました。



御陵(みささぎ)まで来ました。ここで再び三条通りを東へ行きます。旧京阪・京津線は御陵まで地下鉄化されています。



御陵とは、天智天皇山科陵のことでした。天智天皇(中大兄皇子)は蘇我入鹿を暗殺、645年大化の改新(政治改革)を
行った。663年の百済を援助した白村江の戦いに敗れ、667年には都を大和から大津へ移し、671年に亡くなる。



JR東海道線の高架をくぐって、三条通りとは別れて、左に行く。



五条別れの道標、「左ハ五条橋 ひがしにし六条大佛今ぐまきよみず道」「右ハ三条通」。この道標は,宝永4年(1707)建立,
東海道を大津方面から来た旅人にとって,五条・伏見方面への近道を示す役割を担っていた。



JR山科駅まで来ました。右は先にもありましたが「車石」です。説明には「昔の東海道の逢坂山峠と日ノ岡峠は、雨が
降ると、道がぬかるんでしまい、多くの物資を積んだ牛車にとって、通行が大変困難でした。京都の心理学者・脇坂義堂
は文化2年(1805年)、1万両の工費で、大津から京都三条大橋にかけての約12Kの区間に、牛車専用通路として
わだちを刻んだ花崗岩の切り石を敷き並べました。わだちの中に車輪を入れることにより、牛車の通行は大変容易になった。」



絵で見ると、一目瞭然ですね。



徳林庵は「山科地蔵」・「目の神さん」とも呼ばれ、盲目の琵琶法師の聖地といわれる。



北へ行くと三井寺観音道。山科から逢坂山の北部を通り、三井寺に抜ける道があり、東海道と北国街道を結ぶ最短距離 として
利用されていた。逢坂山の関所を大関と呼んでいたのに対し、その裏道にあたるこの峠越えの関所を小関と呼んで いたことか
ら小関越え(おぜきこえ)という。今回は、まっすぐに東へ行く。すると1号線に出ることになる。



陸橋で国道1号線を横断します。



陸橋を下りると、街道らしい風景になってきました。



ここが山科追分です。「みきハ京ミち」「ひだりハふしミみち」と彫られている。横に「蓮如上人」と彫られた碑もある。



奈良街道(左)と東海道の分岐点で、奈良街道に行くと東海道57次の伏見宿につながります。昔は賑わっていたようだ。



滋賀県大津市に入って、再び、1号線に合流。名神高速、京阪京津線、国道1号線が並行しています。



月心寺(げっしんじ)。広重の描いた走井茶屋の跡。境内には今も枯れることなく走井の名水が湧き出ている
街道を挟んで両側に家々がぎっしり建ち、谷間を埋めており、大津絵や大津算盤、縫い針などの大津特産の土産物を売る店
や茶店がひしめき、旅人と牛馬の往来が多い賑やかな場所に位置していたという。だが、今はその面影もない。
現在は、完全予約制で精進料理を食べることができる。特にごま豆腐は絶品らしい。



1号線を横断して、追分駅へ。



ここに元祖走井餅本家の碑がありました。現在、走井餅は八幡市にあります。→走井餅老舗



蝉丸神社は3つあって、ここ大谷町のは分社。さあ、お腹が減ったので、名物うなぎのかねよで昼食です。



きんし丼2,376円。



ここのうなぎ屋さんの前身は、茶屋だったみたい。





ここが山城国と近江国の国境となっていた逢坂山の関所。なんと646年に設置されたとのこと。



百人一首第10番「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」これが都(京都)から東へ下っていく人も、
都へ帰ってくる人も、顔見知りの人もそうでない人も逢っては別れ、別れては逢うというこの名の通りの逢坂の関なのだなあ。



蝉丸神社の上社。蝉丸は延喜帝第四皇子という説あり。生まれつき盲人だったため、逢坂の関に捨てられたとされる。



昔、ここの風景を油性色鉛筆で描いていたので、この場を借りてアップさせていただきます。



国道1号線を横断し、国道161号線沿いを歩くと、旧逢坂山ずい道東口(旧東海道本線)があった。



日本で掘削された最初の山岳隧道(トンネル)で、外国人技師に頼らず日本人だけで完成させた。1878年、京都と大津を
一直線で結ぶと長大トンネルを2つ掘削しなければならなかった。さらに調査で東山の地質が不良だと判明し、東山を避ける形
で現在の奈良線を通って南下し、稲荷駅経由で敷設することとなった。1879年8月18日京都駅 - 稲荷駅 - 大谷駅間が仮開業。
大谷 - 大津間の逢坂山には隧道を掘らざるを得ず大谷 - 大津間を最短で結ぶ664.76mが掘削されることになった。
これが逢坂山隧道である。



蝉丸神社の下社。琵琶の名手・蝉丸が合祀されたことにより、音曲芸道の祖神として信仰を集めている。



逢坂山トンネルの前後は25‰の急勾配が連続する難所であった為、 東海道本線の輸送量が増加するにつれて次第に
ボトルネックとなっていった。 これを解消するため大正3(1914)年に東山トンネル(L=1,865m)、 新逢坂山トンネル
(L=2,325m)を通る勾配を緩和した現行ルートの建設が着工、7年後の大正10年に開通した。



札の辻近く。ここから浜大津まで京阪・京津線が専用軌道から路面を走ります。おもしろい風景です。

    

ここが札の辻。北国海道と東海道の分岐点でした。



昔は、このように賑わっていたそうです。大津歴史博物館より。



こちらは北国海道。江戸時代膳所藩お抱えの料亭であった鮒寿司の老舗と広重の絵。



大津祭の曳山は有名だそうで。さて、旧東海道を東へ進みます。



しばらく歩くと、大津事件の場所がありました。



京都から琵琶湖への日帰り観光で、滋賀県庁にて昼食を摂った後の帰り道、人力車に乗り大津町内を通過中、警備を担当していた
滋賀県警察部巡査の津田三蔵(天津木村似)が突然サーベルを抜いて斬りかかった。ニコライは人力車から飛び降りて脇の路地へ逃げ
込んだが、津田はニコライを追いかけなおも斬りかかろうとした。ニコライは右側頭部に9cm近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。



大津事件当時の風景と現在。



老舗のお店。左は饅頭屋、右はすだれ屋。



JR大津駅あたりまで来ました。



京阪石山坂本線を越えたところに、義仲寺がありました。義仲寺の名は、平家討伐の兵を挙げて都に入り、帰りに源頼朝軍に
追われてこの近くの粟津の地で壮烈な最期を遂げた木曽義仲をここに葬ったことに由来。義仲の側室 巴御前の塚もあった。
以下の説明があった。「妾の巴は義仲と共に討ち死にの覚悟で此処粟津に来たが、逃げろと言っても聞かず、再三の説得に
「最後のいくさしてみせ奉らん(最後の奉公でございます)」と言い、敵将恩田八郎を討ち取り、涙ながらに落ちのびた後、
鎌倉幕府に捕らえられた。和田義盛の妻となり、義盛戦死のあとは尼僧となって各地を廻り、当地に暫く留まり、亡き義仲の
菩提を弔っていたという。それから何処ともなく立ち去り、信州木曽で90歳の生涯を閉じたという。



江戸時代中期までは木曽義仲を葬ったという小さな塚だったが、周辺の美しい景観をこよなく愛した松尾芭蕉(1644-94)が度々訪れ、
のちに芭蕉が大阪で亡くなったときは、生前の遺言によってここに墓が立てられたと言われている。境内には、芭蕉の辞世の句である
「旅に病て夢は枯野をかけめぐる」など数多くの句碑があった。写真左は、芭蕉の椿の杖。



湖岸はすぐそば。膳所駅近くまで来ました。



京阪・瓦ケ浜駅あたりまで来ました。



この松の木は広重の近江八景の「粟津晴嵐」にも描かれた松の木の生き残りで、今では3本のみを残すのみとなったそうです。
自動車の排気ガスや工場の進出による公害などで立ち枯れてしまったとのことです。そういや周辺は日本電気硝子やルミナス
セミコンダクターなどの大きな工場街でした。



左は当時の東海道です(MBSより)。悲しいですね。右は広重の近江八景の「粟津晴嵐」。地元は松の木の復活を願っているのですが、
行政側は道路管理上、困難とのことで、湖岸のなぎさ公園に松林を再現しているとのことです。





JR東海道線のガードをくぐり、またも京阪線の踏切を渡ります。石山あたりまで来ました。



南下してきましたが、東方向へ向かいます。



京阪・唐橋前駅まで来ました。



瀬田川に架かる唐橋。宇治橋、山崎橋とならんで日本三古橋の一つとされる。瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上
の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。古くは壬申の乱(671年)、大友皇子と大海人皇子の
最後の決戦場となった。大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだ。



近江八景「瀬田の夕照」(せたのせきしょう)歌川広重。現在の橋は1979年に再建され、クリーム色になったが、2012年の
塗り替えの際、朱色が良いとかの色論争があり、結局、唐茶色に決まったが、微妙な茶色、歴史のある橋だけに少し違和感を感じた。



橋を渡ったところに、たにし飴屋があった。羊羹も売っていた。たにしの形に似ているからたにし飴という。ニッキ味だった。



JR瀬田駅あたりに、京都出発以来、初めて一里塚跡を見かけました。



月輪池にある東海道立場。立場とは宿場と宿場の間にあって 、旅人や人足、駕籠かきなどが休息する場所のこと。
茶屋等の店が軒を連ねて賑わっていた。



土盛りがあって、木があって、いかにも一里塚らしいですが、確か、何も書いてなかったような。





野路の地名は平安時代末期にみえ、平家物語にも出てくる。鎌倉時代には源よりともが上洛に際し、野路での逗留があったなど宿駅として
武将の戦略拠点ともなり、また瀬田川沿いを宇治方面へ抜ける迂回路の分岐点にもあたり、交通の要衝であったが、後年、草津に宿駅とし
ての座を奪われてしまった。またここは「野路萩の玉川」といって、十禅寺川の伏流水が清らかな泉になって湧き出て、あたり一面咲き匂う
萩とあいまって、その優美な風情は人のしばし憩の場となり、江戸時代の名所図絵に描かれていた。近年は泉も枯れたが、住民が当時の
面影を幾分なりとも復元したとのことである。



もう日が暮れてきそうになってきた。早足で歩いていたが、右の1号線との合流箇所で迷ってしまった。
焦っていたのか、この地図と現地とがどうも合点がいかず、迷ってしまった。



このラーメン店のところで1号線を横断し、北東に伸びる旧道を進んでいきます。



ここが広重の草津の立場が描かれた場所です。現在は瓢箪屋さんとのことで、当時は名物うばが餅屋でした。



草津川の矢倉橋を渡り、伯母川を渡ります。草津本陣は16時30分までに入らなければ閉まってしまいます。急がねば。



道灌という酒蔵がありました。太田酒造はあの太田道灌が先祖とのことで、ワインも造っておられるのだが今回は割愛。



なんとかぎりぎり、16時30分前に草津本陣に到着しました。寛永12年(1635)に創建されたが後に焼失し、
膳所藩主本多家の「瓦ヶ浜御殿」を拝領したものといわれ、関札、大福帳(宿帳)など貴重な資料が残されている。
忠臣蔵の吉良上野介や浅野内匠頭、皇女和宮、シーボルト、新撰組の土方歳三などが泊まったと記録がある。



左はお殿様の寝室です。



本陣から、しばらく行くと中山道との分岐点があります。真っ直ぐ(北)行けば中山道、右(東)へ曲がれば東海道。



左中山道、右東海道の常夜灯。



本日総距離32.9キロ(歩行時間6時間56分)、焼き鳥屋でビールを飲んで帰ります。


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