2草津宿から水口宿まで
2草津宿から水口宿まで






平成26年11月28日(土)9時00分、JR草津駅に降り立つ。前回は夜になって着いたので駅前にこのような街道
広場になっているとは気が付かなかった。歩いて3分で中山道との分岐点へ。高札が立っていた。こんな高札も「親子兄弟札」
博打の類は一切禁止のこと、喧嘩口論を慎み・・・ 正徳元年5月・・・



前回、行けなかった草津宿街道交流館へ。旅の多くは地区や集落で「講」を組織して、旅費を出しあいながら交替で代表者を
つくり、旅に出かけたというもの。写真左は越後世話方とあり。右は宿の一般的な食事です。



当時の草津宿の街並みを模型で再現したもの。草津は温泉はないが、東海道の宿場というのが最大の売りのよう。



左は広重の中山道に向かう草津川を渡るところ、さあこれから出発です。



ちょうど模型の「壱」にあたるところです。



草津川を渡りますが、川の付け替えをしたのか、全く水が流れてません。→草津川
川を渡って東へ少し進むと国道1号線に出ます。草津名物、うばが餅屋さんに行きます。



当時は、街道沿い(草津本陣の西方、現在瓢箪屋)にあったが、現在はここ国道1号線沿いに本店があります。



左が現在のうばが餅、右が街道交流館にあった当時のうばが餅、大きさが全然違う。



栗東市に入りました。老牛馬養生所跡があり、次のような説明がありました。「この施設は和邇村榎の庄屋岸岡長衛門が
湖西和邇村の牛場で老廃牛馬の打ちはぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある
間は打ちはぎすることを止めるようと呼びかけ、天保12年4月当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くである
ことから、ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された。」



新幹線の高架をくぐったところに、目川の名物である菜飯田楽を食べることができる「ほっこり庵」がありました。
菜飯ご飯、豆腐田楽等の定食で700円だけど、1週間前に2名以上で予約が必要とのことでした。右の写真の
右端にあるのは、元膳所城の大手門がここに移築されたとのことです。



右は名代田楽茶屋、京伊勢屋跡です。東海道を往来する旅人の休憩所として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。
ここで供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し、東海道の名物となった。田楽茶屋は
元伊勢屋(岡野屋)とこの京伊勢屋(西岡家)、古志ま屋(寺田家)の3軒を言い、すべてが岡の地に店を構えた。
広重の石部宿目川の里の絵はここらへんと思われます。



古志ま屋と元伊勢屋です。



立派ないちょうの木があったので撮りました。



左は一里塚跡、右は目川の名物のひょうたん。昔から水筒、酒器、調味料入れなどの容器に加工されることが多い。



オランダの医師であり植物学者のシーボルトが江戸からの帰途、善性寺を訪ねている。そのときの見聞「シーボルト江戸参府紀行」
に「かねてより植物学者の僧の恵教のもとを訪ね、スイレン、ウド、カエデ等の珍しい植物を見物せり。」云々とあり。



このあたり、室町幕府9代将軍足利義尚が、長享元年九月(1487年)六角討伐のため近江に出陣し、陣(将軍御所)を置いたところ。
ここの地名が鈎(まがり)なので鈎の陣という。



手原/すずめ茶屋跡地



JR草津線手原駅あたり。左は稲荷神社。江戸時代、笠松が有名で茶店もあり、往来する人や馬で賑わっていたそうです。



前方に栗東インターから国道1号・8号につながる自動車専用道路が見えてきました。



右は、近江富士と呼ばれている三上山。高さ432m。



県道116号線に合流するところで一里塚がありました。ここで東京から東海道を歩いてこられた人と会いました。



六地蔵には江戸時代、旅人のために道中薬を売る店が数軒あり、大角家は、その中で和中散という薬を売る「ぜさいや」の本舗
として栄えました。薬を売るだけでなく、草津宿と石部宿の「間の宿」として、公家・大名などの休憩所も務めたといいます。
和中散という名は、徳川家康が腹痛を起こしたとき、この薬を献じたところ、たちまち治ったので、家康から直々付けられたとのこと。



名神高速道路のガードをくぐって、草津線沿いを歩きます。



東海道51番宿・石部宿に到着。



右は石部の一里塚。東海道が整備された年の翌年の1604年に設置、明治2年に宿駅制度が廃止されたときに撤去された。



T字路を右に曲がって、また左に曲がる。石部宿の鉤の手道と呼ばれ、京都方面から来て、見附を過ぎると街道が鉤の手に
二ケ所設置されていて、敵がむやみに侵入しにくい構造になっていた。



石部の田楽茶屋。ここでお昼ご飯をいただく予定だったのですが、残念ながら臨時休業で、先に進みます。
右は小島本陣跡。



石部宿には幕府直轄と膳所藩直轄の二つの本陣が置かれ、全盛期には216軒の商家や62軒の旅籠がありました。



鉤の手道のあとは、旧東海道はずっと真っ直ぐに。



北島酒造は文化二年(1805年)創業。



街道らしく、右に、左にカーブ。



この辺が夏見の立て場といわれ、ここでも何軒かの茶店があり、立て場の役割を果たしていた。名物トコロテン
や銘酒桜川を売っていた。またここから70m先に一里塚があり、榎木の木陰で旅人がトコロテンを食べ一休みしたという。



三雲城は山の中腹(標高340m)の八丈岩付近に安土の観音寺城主、佐々木六角高頼の逃げ込み用の本城として
1488年、三雲典膳に築かせた。トンネルは大沙川という天井川に明治17年に建設された。



その後、織田信長の京都侵攻で、信長の家臣である佐々木信盛に攻撃を受け、1570年落城。三雲城城主だった
三雲成持の兄・三雲賢持の子が真田十勇士で有名な忍者、猿飛佐助のモデルであるとする説がある。司馬遼太郎の
小説に甲賀流忍者・猿飛佐助が子供の頃に三雲城址で育ち、修行したと書かれている。



JR草津線の踏切を渡ります。



右が三雲駅です。





ここで国道1号線に合流します。



野洲川(愛称:近江太郎)を渡ります。



東からまた街道歩きらしい女性2人組が歩いてきました。



いよいよ水口町に近づいてきたようです。石部の茶屋でお昼ごはんを食べそこねて、先を急ぐあまり、結局、
セブンイレブンで肉まんを食べることになりました。コンビニはトイレも使えるので街道歩きの味方です。
前方に大きな灯籠が見えてきました。



横田渡常夜燈。野洲川のこの辺りを横田川といい、幕府の政策により橋を架けられなかったので旅人は難儀をしました。
参勤交代等で通行量が増加しますと幕府の道中奉行の支配を受けるようになり、渡し舟や渡し賃の制度が整えられました



3月から9月の増水期は4艘の渡し舟で、10月から2月までの渇水期は土橋を架けて通行するようになりました。
また、年間何日かは大水で「川留め」になり、通行ができないこともありました。この常夜燈は文政5年(1822年)地元だけ
でなく京都・大阪の人々を含めた万人講で建設されたもので、総丈7メートルを超え、東海道随一の規模。往時は夜も通行が絶えず、
対岸の渡し場がはっきり分かるように目印となっていた。シーボルトの「江戸参府紀行」にも記録があるとのこと。
ここで水口へは、左折しないといけません。



水口町に3つある一里塚の一つ。泉一里塚。道中奉行の管理下に維持管理がなされた。



旧東海道の北側に国道1号線が並行しています。



この料亭はすでに廃業されてました。



左は北脇縄手と松並木。東海道が一直線に伸びるこの辺りは江戸時代「北脇縄手」と呼ばれた。縄手(畷)は田の中の道のことで
東海道の整備に伴い、曲がりくねっていた旧伊勢大路を廃し、見通しの良い道路にした。江戸時代、東海道の両側は土手になり、
松並木があった。街道は近隣の村々に掃除場所が割り当てられ、美しさが保たれていた。旅人は松の木陰で涼をとったといわれる。



柏木神社を過ぎると、美富久酒造があった。ちょうど新酒が量り売りされていたので酒好きのI君は迷わず購入。



右は百間長屋跡。長屋は水口城の郭内の武家地にあり、百間(約180m)の棟割長屋には、下級武士たちが隣り合って住んでました。
南側(郭内)に玄関があり、東海道に面した北側は出入り口がなく、町場とは自由に往来ができませんでした。これは敵が攻めてきた
ときに郭内の城・藩邸を防御する役割を果たしたそう。長屋には往来に向かって小さな高窓があり、買い物はこの窓から首を出して、
東海道を往来する物売りにヒモをつけたざる等に銭を入れ、品物をそのザルに入れてもらって引き上げる方法で買い物をしていた。



明治時代と現在の様子。



ついに水口城まで来ました。水口は古くから伊勢に通じる街道の要所としてひらけ、室町時代には宿場町として形成されていた。
天正13年(1585年)には秀吉の命によって山城の水口岡山城が築かれると、甲賀の中心都市となり、関ケ原合戦後、徳川氏の
直轄地となった当地は、東海道の宿駅に指定され、徳川家康も通行のたび利用していたが、宿泊施設もなく寺院や民家などに宿泊
していた。三代家光は、寛永11年(1634年)京都への上洛に先立ち、道中の水口に新たに宿館を築かせたが、これが水口城。



こちらが水口城の東側にある山の上にある水口岡山城址。1600年の関ヶ原の戦いでは長束正家は西軍に属し、南宮山麓に布陣していたが
戦闘には参加できず敗走。水口岡山城に籠城したが追ってきた池田長吉らに攻められ、降伏開城した。



ヴォーリズが建築した水口教会。このほか旧水口図書館もあるそうですが、見逃しました。



水口曳山祭は毎年4月20日。江戸時代からさかんに行われたそうです。大津、日野、米原などでも。



17時、本日の目的地、水口石橋駅に到着。ここで広重の絵とともに。やはり名物の干瓢を作っている風景が描かれています。



近江鉄道に乗るのは初めて。色んなラッピング列車が走っていました。写真は警察車両。



あまり食べるところがなくて、水口城南駅まで歩いてコメリのホームセンター内にある王将でお疲れさん会をして帰りました。
写真の列車は石田光成・島左近の近江キャラ電でした。



おーい、お茶バージョンまで有りました。貴生川駅でJRに乗換えです。



草津線に乗換え、草津駅まで行きます。歩行距離31K。次回は2016年3月の予定。



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