4関宿から泊まで
4関宿から泊まで






平成28年3月20日(日)6時15分、西宮の自宅をI君の送迎車にて出発、ここ大津SAで朝ごはんを食べる。
前方に琵琶湖を望みながら、ちょうど東海道第1日目に歩いたところだなあと思い出していた。



亀山ICで下り、JR関駅前の駐車場に車をとめて、8時に関宿の問屋場跡から出発。



朝早くはさすがに誰も歩いていない。ひっそりとしているのもいい。



おや、これは銭湯だったところか、左が男で、右が女。



ここが関宿の東端にあたるところ、一里塚跡もあった。



国道1号線に合流し、しばらく歩いて南に曲がる。



鈴鹿川沿いを東へ歩く。



高速の高架をくぐる。それにしても寒い。吹きっさらしだ。



どうやらこの辺りは「伊吹おろし」の北風が強烈、であるからルートインホテルも南北に縦の形で建てられているのだろう。



関西本線を横断します。



国道1号線とJR関西本線の間のちょうど真ん中あたりに旧東海道が走っている。



さて野村一里塚の標識がある。左に曲がる。





これまでに見た一里塚でも立派でした。一見の価値あり。



ここが京口門跡。亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に築かれた門があった。右はそのジオラマ。



これは亀山市歴史博物館に展示されている亀山城と旧東海道のジオラマ。



左がジオラマで、右は本物の亀山城公園の池です。



広重の亀山宿は、実は京口門だったのですが、こちらの方が雰囲気があるのでここを撮影ポイントとする。



左は加藤屋武家屋敷。中も自由に見学できます。



少し迷いましたが、亀山城方面からは階段を下りて、東へ向かいます。右の古い家は元「あらものや」でした。



おっ、五平餅の看板がありました。関西ではまず見掛けないので、中部圏内に入ってきたのだなあと感じました。



遍照寺は、阿弥陀三尊像が有名。快慶の弟子の行快の作品。



亀山城大手門跡の交差点を右に曲がります。すると商店街になっていますが、ほとんどがシャッターが下りています。
この通りに本陣や脇本陣があったそうです。亀山は西町・東町からなり(ここは東町)、さらにその中が9つの町に
分けられていた。町の規模は大きいが、本陣・脇本陣は各1軒しかなく、江戸後期でも旅籠の数も21軒と少ない。
伊勢参詣の経路からはずれているため、紀行文では「さびしき城下」と表現されていることもあり。



亀山はブラジル人が多いのか、ポルトガル語での表記があった。ネットで調べてみると、どうやらシャープの亀山工場の
関係(シャープの下請けのカメヤマテック)のようだ。昨今のシャープの状況で、出稼ぎに来たブラジル人も大変なようです。



ガーナチョコレート、懐かしい。右は元銭湯と思われる。



右、南北の青い線の道が「巡見道」という。これは江戸時代にこの道を巡見使が通ったことによる。最初に派遣されたのは、
三代将軍家光の寛永10年(1633年)のことで、その後将軍の代替わりごとに、諸国の政情、民情などの査察や災害などの
実情調査を行う目的で実施された。巡見道はここで東海道から分岐して北上し、菰野を経て濃州道と合流した後、伊勢国を
通過し、中山道とつながる。



亀山といえば、ローソク。全国シェア4割。なんと結婚式のキャンドルサービスを1959年に生み出したそうである。



ここらで昼食。最近はどこにでもあるコメダコーヒー。ここで今日のゴール地点を練ることにした。



めったに食べないものを食べるのも、旅の醍醐味。小倉あんとバターは、トーストに良く合うことがわかった。





右の建物は和田町公民館。大正モダンな感じ。



和田道標。元禄3年(1690年)、東海道から神戸・白子・若松(鈴鹿市)方面への分岐に建てられた道標である。



国道1号線の高架をくぐります。



左に曲がって、関西本線としばらく並行して歩きます。



ほどなく、井田川駅に到着。



海善寺の踏切を渡ります。





話しに夢中になっていたら、道に迷ってしまった。常に分岐では注意しないと。鈴鹿川を渡ります。



中富田一里塚。中富田村は亀山領の東端にあたり、隣の神戸領との境界を接する村。右の写真の左側にある道標には
「従是東神戸領」とあった。ここらは鈴鹿川と北安楽川の合流点にあって、完全な堤防がないため、毎年書きの水害には
耕地・住宅の被害甚だしく、人命も失ったことも度々、幾度かの堤防建設の訴願も、南岸の城下町神戸の浸水を恐れるため
藩主の許すところとならず、強いて行えば打ち首の極刑に処せられる。しかし毎年、被害を蒙る部落民は目の前の苦悩に
耐え難く、処刑を恐れずに築堤しようとした。この時に菊女という乙女、築堤は男子全員の命を失い、将来部落の自活に
大いなる支障をきたす。この工事は死出の仕事にしようと絶叫して、女衆200余人暗夜を選んで工事を続け、苦心惨憺
6年ついに完成、今日の美田、安住の地を得た。このこと、いつしか藩主の知るところとなり、処刑の日が来た。
処刑第1番者の菊女が断頭の座についたとき、早馬で駆けつけて来た家老松野清邦の死を期しての諌めに、200余名の
命は助けられ、逆に金一封、絹五匹を贈られたという。




新しい道路建設で旧東海道が分断され、ややこしくなっています。右上の地図から、南側から現在の国道1号線、
その北が旧国道1号線、さらにその北が、旧東海道になっています。



旧国道1号線から旧東海道に入ったところが、庄野宿の西側入口です。



川の氾濫地帯であったせいか、川俣神社が3つもある。



「亀山へ2里3丁、石薬師へ1里1丁」との道標。半時(約1時間)歩いた距離を1里と呼ぶようになった。
人が歩く速度は地形や道路の状態によって変わるので、様々な長さの里(36町里、40町里、48町里など)が存在することに
なるが、目的地までの里数だけで所要時間がわかるという利点がある。しかし、やはりこれでは混乱を招くということで、
豊臣秀吉が36町里(≒3927m)に基づく一里塚を導入し、1604年に徳川秀康が子の秀忠に命じて全国に敷設させた。



庄野宿資料館(旧小林家住宅)。庄野宿の名物は焼米。この地域は川の氾濫により、田んぼも水に浸かることも度々あり。
その濡れた米を工夫して有効活用したのが、焼米。今では災害救助あるいは登山等での非常食にもなっているアルファ米の
元祖なのです。新米を籾(もみ)のまま煎(い)ってつき、殻を取り去ったもの。そのままで、また、湯に浸したりして食べる。
当時は、写真のような小さな米俵に入れて、旅人のお土産になっていたそうです。



つい最近まで小林さんの末裔の方が住んでおられたそうですが、鈴鹿市に寄付されたとのことです。





清酒庄野があった町家前を通って、右に曲がる。友人のI君が手を叩いたので、驚いた白鷺が飛んで行った。



名作「庄野の白雨」白雨とは夕立のこと。向かいが殺風景なコンクリート工場だったので、やむなくここで撮影する。



しばらく国道1号線を歩きます。



関西本線の線路の近くを歩きます。



関西本線のガードをくぐると、一里塚らしき雰囲気のある木が前方に見えてきました。



石薬師の一里塚でした。説明書きには「信長記には、天文9年(1540年)冬、足利将軍が諸国に命じて40町を
1里として一里塚を築かせ、その上に松と榎とを植えさせたという(1丁は約109m)。家忠日記には慶長9年2月
秀忠が東海道、東山道、北陸道の三道に一里塚を築かせ、一里を36丁に改めたという。」



石薬師宿の入り口です。この宿は元和2年(1616年)、幕府の命令で設置された。



広重の石薬師は、お寺の前ですのですぐにわかりました。ここのお寺には秘仏薬師如来像があるとのこと。



江戸時代参勤交代でこの地を通る城主が、道中の安全祈願を当寺で行ったことは知られており、その際山門から境内に
下りる石段に丸みをつけ、足元に配慮したという石段が、今も残されている。





国道1号線の上を横断します。右の町家は小澤本陣址です。小澤家には当時の文書が多く残されており、元禄時代の
宿帳には赤穂の城主、浅野内匠頭も泊まった記録がある。



通りの民家に、焼き物にした石薬師宿の地図があった。百姓には氏がないことがわかる。猫も名前のみだ。



石薬師宿を抜けて、国道1号線に合流します。



トンテキ・来来憲、有名なのか?大トンテキの店として有名らしい。いつか行ってみたいものだ。
1号線を渡るのに、地下道があるのですが、車がいないのを見計らい、横断した。



しばらく国道1号線を離れるが、すぐにまた合流することになる。



目の前に交通事故。1号線沿いのボストンコーヒー店から出てきたプリウスが1号線を東に向けて、追越し車線に入った
ところ、そこに西からやってきたバイクが避けきれずに激突、バイクの運転手は反対車線へ飛んだ。知らぬ振りをするわけ
にいかず、I君はすぐに119番へ、私はどうしてよいのかわからなかったが、交通整理をして救急車が来るのを待った。
バイクの運転手は、どうやら大腿骨を打ったらしく、立ち上がることができない。意識はあり、大丈夫そうだ。しかし
なかなか救急車がやってこない。15分くらいでようやくやってきて、ようやくこの現場を離れた。
私は、車の運転手が冷静に対処していたのに感心した。こういうときは、お節介をすべきだと痛感した。あとで後悔するからだ。



采女食堂を過ぎ、ゴルフ練習場の看板あたりで、1号線を離れ、右に入る





臨海工業地帯の石油コンビナート、四日市らしい風景です。



難所、杖衝坂。杖突坂ともいい、東海道の中でも急坂なところで、日本武尊が東征の帰途、大変疲れていたので、杖を
ついてこの坂を登ったというのが由来。(古事記) しかし、今ではあまり大したものではない。



地元住民の手作りの資料館があり、水曜日、土曜日及び日曜日・祝日の午前中のみの開館で、見れなかった。



鈴鹿川の支流、内部川を渡ると本日のゴールも間近です。



橋を渡って、階段を下りて、四日市内部地区に入ります。





これ、近鉄・内部線の終着駅である内部駅。知らなかったな、内部線って。



ここらへんは小古曽町ですが、この町を代表する神社は、小許曽神社という名前。追分駅まで来ました。



この鉄道は正確には四日市あすなろう鉄道内部線といい、1965年(昭和40年)4月から近鉄が運営していたが、2015年
(平成27年)4月より、四日市市が第三種鉄道事業者として鉄道施設と車両を所有し、新たに近鉄と四日市市が共同で
出資して設立した四日市あすなろう鉄道が第二種鉄道事業者として運行している。列車が小さいなと思ったら、軌間762mm
という特殊狭軌の軽便鉄道として建設され、現在も当時のままの軌間。



ついに日永の追分が見えてきました。



ここが、江戸から伊勢に向かう参宮道と、京都に向かう東海道との分岐点でした。ここでは名水が湧いており、地元の
方が汲みにきていた。説明書きには「日永の追分の神宮遥拝鳥居は安永3年久居市の渡辺六兵衛が江戸に店を持ち、
東海道を上下するたびに参宮街道との分岐点に鳥居の無いのを遺憾とし、江戸店支配人伊勢屋七右衛門を願主として
江戸で伊勢出身同志数名を募り敷地を買い入れて鳥居を建設した。さらに今後の改造費として金100両を寄付・・・
鳥居は式年遷宮ごと20年ごとに建てかえられ、今の鳥居はS50年に建て替えられ、第9次のもの。」



夕方になり、渋滞。右は日永郷土資料館でしたが、すでに営業時間を過ぎており、残念ながら見ることができなかった。
追分は四日市宿と石薬師宿との間にあって「間の宿」と言われ、さきほどの神宮遥拝鳥居を中心に旅籠が軒を並べ、
茶店も多かった。そして間の宿は割安に宿泊することができ、旅人からは歓迎されていた。



本日の目的地である泊に到着。そしてJR関駅に戻るため、関西本線の南四日市駅まで歩く。18時ごろ駅に着いた。



電車に乗り、亀山駅で乗換え、ここで寒い中、待ち合わせ40分、関に着いて、温泉に入ろうと鈴鹿まで車を走らせる。
イオンタウンにある鈴鹿天然温泉花しょうぶに行く。1号線渋滞で40分もかかり、また温泉が大混雑、脱衣場も順番に
並んで入場。ここまで混むのは正月以来とのこと。風呂から上がって食堂でめしでも食おうとすると1時間以上もかかる
とのこと、待ってられないのでイオンタウンにあるラーメン屋に行くと、ここでも待たされる。関西に無いものを食べよう
と台湾混ぜそばを注文。味が濃すぎて辛い。これは関西人にはちょっと無理な感じ。いやはや疲れきった1日でした。



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