5 泊から鳴海宿まで
5 泊から鳴海宿まで








平成28年5月21日(土)6時00分、西宮の自宅をマイカーにて出発、ここ土山SAで朝ごはんを食べる。
大津SAの朝食の方が良かったなあ。いやいや少し値は張るが、隣のスエヒロのレストランの朝食にすれば良かった。
8時40分、泊を出発。



ここ泊、日永の集落は東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に大きな松の木が並んで植えられた。その間、家は一軒もなく、
縄手と呼んでいた。この松はその生き残りの貴重な1本であり、往時の東海道や日永の歴史の一端を伝えるものである。
縄手の道幅は土手も入れて約5間(9メートル)で、現在の道幅と一致している。
ちなみに、旧東海道の道幅は3間(約5.5メートル)である。



家と家との間に挟まれているのが、日永の一里塚です。うかっとしていたら、わからないところであった。



日永神社。気がつかなかったが、正面の拝殿右側にある道標(撮れていない)は、元々、追分新宮遥拝鳥居の場所
にあったもので1656年に僧侶によって建てられた東海道最古の道標ということだ。



ここ日永は団扇が名産だそうだ。



四日市名物、団扇最中というのも。





「赤万能即治膏」「無二即治膏」「萬金丹」などの膏薬が売られていた200年の歴史がある旧鈴木製薬所。
1750年ごろ、蘭学発祥の地、長崎で漢方を四代目が習ってきたという。近鉄名古屋線の高架をくぐる。



9時40分、四日市の中心部に到着。





今日は日差しがきつく、商店街に入るとほっとしました。これ四日市のゆるキャラ、首を伸ばしているのが「大入道」、
手前のが、「こにゅうどうくん」。



桑名に近づいてきたせいか、志ぐれ蛤(ハマグリの佃煮)のお店がありました。商店街を出たところに諏訪神社が
ありました。だから、スワマエ表参道商店街といいます。



一旦、1号線に合流し、また旧街道に入ってしばらく歩くと、名物なが餅の笹井屋がありました。隣が洋菓子店でした。



8個入りが最小単位でした。こんなに薄く延ばしたもちの中にあんが入っているなんて!とちょっと驚きです。
お店の中でいただきました。上品な餅です。紅白の詰め合わせなどもありました。ちなみにお茶のサービスはありませんでした。



笹井屋を出たところが、三重川。ここが、広重が描いた四日市宿です。



四日市の陶器といえば、萬古焼(ばんこやき)。橋の真ん中に、萬古焼で出来た昔の地図がありました。





しばらく歩くとまた、橋がありました。この海蔵川を渡ったところに、三ツ谷の一里塚跡がありました。



昭和20年代に海蔵川が拡幅された際、かつての一里塚は川の中に取り込まれてしまった。



再び、1号線に合流、ここにも笹井屋がありました。こちらのお店の方が広そうだ。



珈琲かあさん。ネットで調べたら、「女性婦人ひとりが営む地元の人たちのたまり場茶店。小料理屋を改装した
店内は郷愁を誘います。」とありました。



右は「かわらずの松」という。この道は昭和13年国道1号線が出来るまでは、幹線道路として往来がはげしく賑わった
道路であった。当時は東海道沿いにはたくさんの松の木があったが、戦後経済の発展に伴い、道路の拡幅と松くい虫の
被害を受けて、東海道の松並木が姿を消した。現在四日市では、往時の松が残っているのは、日永地区とここ羽律地区
の2本だけになったという。で、この羽律地区の松を、昔からこの付近の町名が川原須と言われていたので、この松を
「かわらずの松」という。



茂福町(もふくちょう)に入ってきました。新設用水道碑などがありました。







左、十四川の桜並木、桜が咲く頃はさぞ綺麗なんでしょう。右は、明治天皇富田ご休憩の記念碑。
ここで明治元年(1864年)9月25日、京都から東京に向かう途中、ここで休憩され、富田の焼き蛤を賞味したとのこと。



近鉄・富田駅付近の商店街。



富田の一里塚跡。四日市には、富田、三ツ谷、日永、采女の4箇所に一里塚跡がある。



左は、上が三岐鉄道、下がJR関西本線。 古い看板がありました。「お母さんの確かな目でひとつ、ひとつを・・・」





左は、松寺の立場跡。立場は旅人や人足などが籠や荷物を下ろして杖を立て、ひと休みした所。当時四日市宿と桑名宿の
間には5箇所の立場があったという。朝日町までやってきました。



朝日町は、南側は四日市市、北側は桑名市と隣接している三重県で面積が一番小さい自治体。



住民の半数が東芝関係者である『東芝の町』である。



ここも昔は桑名藩で、富田の焼き蛤が名物であったが、現在では焼き蛤料理はここにはない。



町屋川を渡ると、桑名市に入った。頭の中は、焼き蛤を食べることが大半を占めていた。



橋を渡って、すぐに北へ行き、1号線を離れる。昔の橋の様子が書かれた看板があった。現在の橋の北側にあった。



川の近くに2軒ほど料理旅館があったが、いずれも廃業していた。



これは懐かしいロバートブラウン。子供の頃、テレビのコマーシャルでよく流れていた。今でも販売されているそうだ。
キリンシーグラムのブレンドウイスキーで、ロバートブラウンという名前は、スコットランド人によくある名前だそうです。



城下町だけに、道が何度も鉤型に曲がっています。



古い家屋、また老舗の仏壇屋など宿場町の雰囲気が漂ってきました。





右に曲がって、南に下ると、桑名市立博物館がありました。ここでトイレ休憩も兼ねて見学することにします。

    

やはり、桑名といえば焼き蛤。「その手は桑名の焼き蛤」の解説。桑名は三重県の地名で、それに「食わない」を掛けて言ったことば。
焼き蛤は桑名の名物であり、殻付きの蛤を枯れた松葉や松笠を燃やしながら焼いたもの。さらに調子よく続けて「その手は桑名(食わない)
の焼き蛤」と言う。桑名の次の宿場が四日市であることから「その手は桑名の四日市」ともいう。
その手は桑名の焼き蛤とは、うまいことを言ってもだまされない。その手は食わないというしゃれ。
桑名の折鶴は、1枚の紙から複数の鶴を作り出すもの、今から約200年前、寺の住職が考案したもの。最高97羽という。



ようやく、桑名城址に来ました。



これらは桑名城壁の一部で、延長500メートルが現存している。
桑名宿は天保14年(1843年)当時、人口は8848人、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠屋120軒もあった。



立派な神社が突如、現れた。春日神社。この鳥居は1667年、桑名藩主松平定重によって建てられた。
時刻はすでに、午後1時30分、ここらでさっと昼食を済まさないといけないということで、ここ歌行燈というお店に入りました。



あわてて注文したばっかりに、蛤うどんになってしまった。しかも小ぶり。メニューをよく見れば、あったのに。
ここのお店は明治10年創業の老舗。明治の文豪・泉鏡花の描く「歌行燈」は 明治末年の伊勢路、桑名を舞台にした小説とのことだ。
私は誤って、天麩羅の薬味である大根おろしと生姜をうどんに入れてしまったため、蛤の繊細な出汁が台無しになってしまった。





ようやく七里の渡しに到着した。ここまで約20キロ。しかし時間もなく、写真を撮って慌しく、ここを去ることになる。



これ川口櫓です。右の写真は明治10年ごろ。この桑名のシンボルともいえる櫓は平成15年に復元された。実は水門統合管理所。



広重の桑名宿です。



船着場には伊勢の鳥居もあったんですね。さて、焼き蛤が心残りですが、急ぎ足で桑名駅まで向かいます。



14時42分発五十鈴川行きに何とか間に合いました。先ほど、蛤うどんを食べたのが、14時20分くらいだったので
本当に慌しい。桑名駅は、JRと近鉄が共通の改札になっておりました。



左の赤い電車は、大垣行きの養老鉄道です。三岐鉄道もあるし、この付近にはあまり知られていないローカル電車があるようだ。

    

四日市駅で降りて、四日市あすなろう鉄道に乗換えです。これに乗るのも楽しみの一つでした。もともと近鉄内部線だったのが、
2015年4月から四日市市の第三セクターで運営されている。切符も磁気でなく、ただの薄い紙の切符でした。



来週は伊勢志摩サミット。オバマ大統領が広島を訪問するそうだ。そういや四日市の駅には警察官が巡回していた。
列車は狭軌のミニサイズ。四日市から終点の内部まで、ほぼ旧東海道沿いに走る。



泊駅まで戻ってきました。桑名から結構、距離がありました。さて車に乗って、七里の渡しの間をワープします。





車で、揖斐川、木曽川、長良川の3つの大河を越え、さらに入り江を北上し、約1時間かけて七里の渡しに到着。
もう日は西に傾き、時刻は午後4時30分になっていた。1625年(寛永2年)に建てられた常夜灯は、航行する船の
重要な目標となっていたが、戦災で焼失し、昭和58年に復元された。松尾芭蕉は、ここ七里の渡しから舟遊びで、
あゆち潟(愛知の語源)を楽しみ、熱田三歌仙を残した。この舟遊びで芭蕉は5・5・7の歌を開拓したという。



さあ、鳴海宿まで、頑張って歩くことにする。



「熱田荘」この建物は明治29年(1896年)に建てられた「魚半」という料亭であった。現在は高齢者福祉施設。



少し歩くと、ひつまぶしで有名な「あつた蓬莱軒」があった。すでに人だかりで、4時40分現在で1時間待ち。
蛤の無念は鰻で晴らそうと思っていたが、これでは無理だろうなと思っていたが、最終の午後8時に予約できた。



蓬莱軒から陸橋で、熱田神宮方面へ。



ここは熱田伝馬町の西端。左が現在の姿、右のイラストが江戸時代。熱田神宮の南を東へ曲がって、鳴海方面に歩く。



右は裁断橋跡。宮宿の東はずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていた。18歳になる息子を小田原の陣で亡くした
母親がその菩提を弔うため、橋の架け替えを行った。33回忌記念に再度架け替えをしようとしたとき、その母親
も亡くなってしまったが、養子がその意志を継いで完成させたという逸話。



前方にJR東海道線の踏切が見えます。



1号線と合流し、旧東海道は荒崎町のところで南へ折れて、山崎川を渡って呼続(よびつぎ)地区に入ります。



熊野三社だったと思う。古来、呼続一帯は四方を川と海に囲まれた、巨松の生い茂る陸の浮き島として「松巨嶋」と
呼ばれた尾張の名所であった。ここは東海道が南北に通り、鎌倉街道が交差している。
芭蕉は「寝覚めの里よびつぎ」と書き記し、この地に足跡を残している。また山崎の長坂に接する山崎の立て場は
宮宿への往還で賑わい、宮の宿より渡し舟の出航を呼びついだことから、「よびつぎ」という名がついたという。



笠寺地区に入ります。


名古屋十名所の石碑のあった清水稲荷大明神、長細い巨木が印象的であった。



名鉄・本笠寺駅付近を通って、笠寺商店街を通ります。



前方に見えるのが笠寺です。江戸時代の笠寺村は東海道第40番目の宿場である鳴海から熱田宿を結ぶ東海道筋にあたり、
農業を主な業とし、町並みには小商家、茶屋などがあった。笠寺観音は尾張4観音の1つとして人々に親しまれ、今も
節分などには露天が並ぶ賑わいを見せている。



笠寺の由来は、もと小松寺といい、流れ着いた霊木に僧が11面観音を刻み、小堂を建てて安置したのがはじまり。その後、
荒廃し、仏像が雨露にさらされているのを見た土地の娘が自らの笠をかぶせた。この娘はやがて藤原兼平の妻となり、その縁
により再興させたという。境内には芭蕉碑も残されている。



笠寺から約600mのところにある市内に現存する唯一の一里塚である。この笠寺一里塚はこれまで見た一里塚でもベスト3に入る。



左はどうやら、鉄道敷だった跡がある。右、天白橋を渡る。もうすぐ鳴海。



右の方の道を行って、県道59号をかすめる。



このアパート、こんな崖地によく建てたものだ。



ようやく鳴海地区に入ってきたようだ。右は高札場。この鳴海の高札8枚は名古屋市立博物館に保存されている。
@徒党・強訴・逃散を禁ずる。A外国人への乱暴を禁ずる。Bキリスト教を禁ずる。C駄賃人足賃を記す。
D五倫の道を記す。E逃散を禁ずる。Fキリスト教を禁ずる。G金札の流通の妨げを禁ずる。以上。



午後6時30分、鳴海宿に到着。疲れました。



本日の歩行距離は34キロでした。沈む夕日が綺麗でした。



岐阜行きの急行に飛び乗りました。ホテルの最寄り駅である神宮前まで行きます。



今夜のお楽しみ、あつた蓬莱軒です。ホテルにチェックインを済ませ、シャワーを浴びた後、午後8時の予約に
何とか間に合いました。週末ということで、最終タイムでも館内はてんやわんやでした。
ここは宮の宿・赤の本陣跡。本陣が2軒あり、赤本陣と白本陣と区別していた。建坪236坪、間口約16軒、奥行き
21軒と大屋敷であった。戦災により本陣の遺構はまったくない。



お運びのお姉さんは着物姿。お庭も美しく、申し分ない。ひつまぶしは、3600円でしたが、私がこれまで食べた鰻
の中で、ここが一番でした。本当に良く出来ているのです。話しによれば、愛知万博の頃に名古屋グルメがブレイクしたとのこと。



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