7 名鉄・美合駅から豊橋(吉田宿)まで
7 名鉄・美合駅から豊橋(吉田宿)まで





平成28年6月18日(土)5時30分に西宮の自宅を出発、JR西宮駅5時54分発京都行きの各停に乗る。
新大阪駅は、早朝から賑わっていた。



6時23分発のぞみに乗った。



切符は新大阪―名古屋の自由席早特往復きっぷ。往復で9,150円。安い。ただし1週間前までに購入しないといけない。
7時10分ごろには名古屋到着。



あまりの速さに驚いた。これに乗ると他の選択肢は無いような気がする。名鉄に乗換え。



電車に乗っている時間が唯一の休憩時間です。



7時29分発豊川稲荷行きの急行に乗ります。行き先によって青やら緑のテープで、電車を待つ列が区別されていました。



約1ヶ月ぶりの美合駅です。ここに再び来ることもないだろうな。





いきなり、松の木が左75度で出迎えてくれました。



無人のガソリンスタンドが、ねこの楽園になっていました。子猫が無邪気に遊んでました。



国道1号線沿いになり、道の駅「藤川宿」の看板が出てきました。



ほぼ同時に、旧東海道が右手に分岐し、藤川宿の看板がありました。レッドバロンの本社工場が近くにありました。



松林を抜けたところに、さきほど乗ってきた名鉄が走っていました。名古屋本線の終点は豊橋、本日の我々の目的地です。



左は藤川の一里塚。当時は街道の左右に塚を作り、榎木が植えてあったらしいが、1830年ごろには南側は無くなり、
北側の榎木は昭和初期に枯れてなくなったそうである。



左は藤川宿脇本陣跡です。脇本陣は大名や幕府の重臣が本陣に泊まる際には、その家老や奉行の宿に充てられた。
ここは現在、無人の資料館になっています。



藤川から吉良道(塩の道)が分岐しています。写真を撮りそこないました。吉良といえば、赤穂浪士の憎まれ役の
吉良上野介ですが、ここから南西方向に西尾市があり、そこが上野介の本拠地です。吉良道はそこにつながっています。



藤川宿の長さは約1キロ。本陣、脇本陣各1軒、旅籠屋は大7軒、中16軒、小13軒あったとのこと。



お城風の建物、何かと思ったら、粟生人形店でした。



旧東海道は、電柱のところを右に曲がります。



藤川宿東棒鼻跡(宿の出入り口)が整備され、広重の藤川宿の絵とぴったりの場所が再現されていました。



ここが徳川家康の生涯における三大危機の一つ、三河一向一揆で山中八幡宮の洞窟に逃げ込んで助かったとのこと。



山中八幡宮あたりを過ぎたところで、国道1号線を横断します。北側の側道が旧東海道です。



左が名鉄、右が国道1号線に挟まれた格好になって、この先、旧道はなくなって国道1号線の歩道になります。



右の写真、松の木のところで右に曲がって、国道1号線から離れます。



本宿の一里塚と名鉄・本宿駅です。





右の写真は本宿の陣屋跡と代官屋敷です。



本宿は街道ととに開けた地であり、中世以降は、この法蔵寺の門前を中心に町並みが形成された。
法蔵時は行基が開山、家康が幼い頃、手習いや漢籍を学んだとされ、桶狭間の戦い後、家康は守護不入の特権を与えた。
境内には、新撰組の近藤勇の首塚も祀られている。



これより、西は本宿村。冠木門である。豊川市に入りました。



しばらく東名高速・名鉄と並行する国道1号線を歩く。京都から滋賀に抜ける走井によく似た光景です。ここは忍耐です。

    

国道1号線から、右手に入ると旧東海道。長沢駅近くの常夜灯ですが、電球が点いていました。
伊勢街道にも電球の点いている常夜灯はありませんでした。長沢駅付近で、前回に引き続き、国府在住のK君が合流しました。



長沢城址あたりを過ぎ、73号線の高架をくぐります。





赤坂宿の東端にやってきました。右は杉森八幡神社です。



左は、御休処よらまいかん。長崎からギターを担いで、サンダルで歩いている若者2人組と会いました。
右は、旅籠大橋屋です。実は今日が、豊川市が主催する一般公開日なのでした。



大橋屋は平成27年3月まで現役だったのです。東海道をもう少し早く歩いていれば、泊まることもできたのですが。



江戸時代は「鯉屋」という屋号の旅人宿、明治19年に「高田屋」、昭和19年に「大橋屋」と所有者の変更により、
屋号も変わったそうです。



木造瓦葺二階建で、面積が1階が142.99u、2階が106.67uで、大小10の部屋があった。



建築時期は1809年以降の19世紀初頭の可能性が高いこと、一部の建具や内装に改変はあるが、軸組には
手を加えられていない。平成27年9月に所有者より、豊川市に寄付。今後、一般公開に向け、耐震補強を含めた
保存整備の設計作業や工事を行う計画とのこと。



広重の赤坂宿の絵とともに。この絵は按摩師や、飯盛女などの描写がとてもおもしろい。
ソテツの木はとなりの民家にありました。



彦十郎の本陣跡です。



地図に「百姓」と「水呑百姓」とある。どう違うのか。水呑は貧しくて水しか呑めないような百姓を指す江戸時代の貧農の呼称。
田畑を所有していないため年貢などの義務が無く、代わりに村の構成員とは認められておらず発言権もない身分となっていた。
親族からの身分継承だけでなく、百姓の次男,三男,あるいは本百姓から転落した者などもおり、江戸時代の農村の貧農層を形成していた。



江戸末期の建物でしょうか、酒屋さんも相当古い看板を掲げていました。



左は関川神社です。ここに芭蕉の句「夏の月、御油より出でて赤坂や」の碑がありました。さてどういう意味なんでしょうか?
夏の月の出ている時間の短さは、なんと御油から赤坂の間を過ぎる時間に過ぎない。という解釈でいいようです。
芭蕉の句どおり、すぐに御油の松並木です。



東海道で一番立派な松並木だそうですが、ここはK君のマイカー通勤路になっていて、ずっと松の木が邪魔だと思っていたそうな。



松並木を抜け、今度はK君が楽しみしていた東林寺の飯盛女のお墓を見学します。右に入ったところです。



左は、墓に〇〇童女(18歳未満)と書いてました、右が飯盛女の墓、〇〇信女(18歳以上)と書いてました。
飯盛女とは宿場にいた遊女のことで、その多くは、生計が苦しい家や年貢を納めることが困難な農家が、金を借りるために
年季奉公に出した娘たちでした。御油宿は遊興の宿場として知られ、多くの飯盛女がいましたが、彼女らは非常に不遇な
立場に置かれていました。これらの墓石は、旅籠屋の抱え主が飯盛女の菩提を弔うために建てたものです。



ここイチビキ醤油の工場で、広重の御油の絵とともに。



旧東海道は右に曲がりますが、ここ御油には「松並木資料館」が左手にあり、寄ってみました。
右の松の木は木肌が亀甲模様になっています。これは三河黒松の一大特徴。



左は赤坂宿の西側の入口、右は上からみた赤坂宿。



そして松並木の次には御油宿。松並木は幕府が街道保護政策の一つとして実施。1604〜07年にかけて植え付けがなされ
ました。その保護や植継ぎは、周辺の村々に義務付けられました。夏は暑い太陽を避け、冬は冷たい風や雪を和らげてくれます。
昭和19年に国の天然記念物に指定されました。



旧東海道に戻り、花ベルツゆかりの地の説明書きがありました。ベルツはドイツから招いた医師で、その妻になったのが花ベルツです。
任期を終えたベルツはドイツに帰国、花も一緒に。国際結婚の先駆けとなった人です。ベルツ死後もドイツに残ったが、第一次大戦で
日本に帰国。ここは花の父である熊吉の生家であり、旅籠屋だったそうです。



御油橋を渡ります。川沿いは桜並木になっています。

    

姫街道との交差点です。姫街道は、御油宿から見附宿までの東海道の脇街道です。この先、新居の関所は女改めが厳しかったため、
それを避けるために、浜名湖の北側を通ったので姫街道という説があります。



大社神社は三河国府総鎮守の由緒格式の高い神社ですが、キティーちゃん御守りを授けてくれるそうです。ここの灯籠にも電球がありました。



うば車屋! 高度成長期の名残か、少子化の時代にまだ残っているのですね。



午後1時20分、玄関に手筒花火が置いてあるK君オススメの割烹料理店(確か丸美?)で昼食をとりました。松花堂弁当1000円はお得でした。
手筒花火は豊橋が有名ですが、ここ国府や御油の夏まつりでもやっているとのことです。



店前で記念撮影し、用事のあるK君はここで解散。





国道1号線に合流し、名鉄の上を渡る。



中華・豊龍園の手前で、旧東海道は右に分岐し、県道31号の高架道路のため、分断されたせいか、南に一旦迂回。



右の写真の高架道が県道31号線、これより殺風景な工場地帯を通っていきます。



そんな殺風景な街でしたが、梅雨時期ということでアジサイが咲いてました。



佐奈川を渡る。右は伊奈村立場茶屋・加藤家跡。ここは御油宿と次の吉田宿の中間にあたり、立場茶屋(休憩所)があった所。
茶屋の中で、格式の高い加藤家屋敷があった。「良香散」という腹薬が売られ有名になったという。芭蕉は弟子でもある医師の加藤家
を訪ね、句を読んだ。「隠さぬぞ 宿は菜汁に 唐がらし」。来客にも質素なもてなしであり、菜汁と唐辛子だけの食事を
とりつくろわない様子に感銘をうけ、わが弟子を褒め称えているのである。明治天皇も加藤家で休憩した。



ガーデンテラス・フローリス、本当はここでコーヒーでも飲んで、まったりしたいところ、しかしまったりどころかもう午後3時。
本陣の見学ができる二川宿は吉田宿の先でとても今日中には行けません。明日見学するとなると早朝に通ることになるのでまだ開いていない、
そこでやむをえず、ここから電車で行くことにしました。JRの線路が見えてきました。



JR小坂井駅は、なんと飯田線なんです。



列車を待つ間、靴下を脱いでマメができないように足を乾燥させます。前から一度は乗ってみたかった飯田線、まさか今回の旅で乗るとは意外でした。



飯田線は豊橋まで、豊橋から浜松行きの東海道線に乗換えます。



二川駅から本陣までは歩いて15分程度ありました。到着は4時過ぎ。本陣は江戸後期、111軒あったどうですが、今では草津とここだけが残っています。



玄関棟から書院棟へ。江戸初期は後藤家が、しかし度重なる火事で没落、次は紅林権左衛門が後藤家を継いだが、これも1806年12月の火事で再起不能、
最後が伊勢屋の屋号で酒造・穀物商を営んでいた馬場家。役人から本陣を継ぐ願いがあり、断り続けていたが、赤坂代官所の命によりやむなく引き受けた。



上段の間です。右は草津本陣のものです。



これは殿様用の湯殿。庭もいいですね。



となりが旅籠屋「清明屋」です。旅籠の玄関でわらじ履きの足を洗って、部屋に入りました。東海道中膝栗毛でもこのシーンがありました。



資料館が非常に充実していました。半日くらいゆっくりして見学したいところですが、駆け足でした。
左は、旅籠の客引きや足洗いの桶を持ってくるシーンが描かれています。右は木賃宿。薪代程度の宿賃で宿泊できた最下層の旅籠。
宿泊者は大部屋で、寝具も自己負担が珍しくなく、棒鼻と呼ばれた宿場町の外縁部に位置した。食事は宿泊客が米など食材を持ち込み、薪代相当分を払って
料理してもらうのが原則であった。木賃の「木」とはこの「薪」すなわち木の代金の宿と言うことから木賃宿と呼ばれた。



食事シーン。一汁三菜、栄養のバランスもばっちりのようです。糖尿病なんて無かった時代でした。それでも江戸時代の『旅行用心集』には
「腹が空いたからからといって旅行中の食べすぎは良くない。特に急いで食べるのは良くない。空腹時の食べすぎは急病になることもある。」と。



江戸時代も後期ごろになると、商人たちなどを対象とした「定宿」看板を掲げた施設が街道に見られるようになった。「東講」や「浪速講」などといった、
組織的な指定施設化である。旅行で大切なのは、良い宿を選択するか否かであり、講中に加われば講中の鑑札を渡し、道中の宿所にも同じ目印札を掛けさ
せてあるので、その宿に泊まれば、万事安心である。右は、客引きの様子です。



乗掛け。人一人が乗り、荷物も20貫(約75キロ)まで積むことができた。



左は比丘尼でしょうか。中世は尼の姿をして諸国を巡り歩いた芸人でしたが、江戸時代になると宴席にはべる歌比丘尼となり、売春婦に転落するものもいた。
膝栗毛にも、北八がモノにしようと声を掛けるが、相手にされないシーンがあった。右の天狗を背負った人は? 江戸時代になると、天狗の面を背負った
白装束の金毘羅道者(行人)が全国を巡って金毘羅信仰を普及したそうである。



人足。一人5貫(約20キロ)までの荷物を持つのが決まり。それ以上は超過料金がとられた。



左は庶民の旅姿、右は武士です。旅の持ち物は少なくするのが良い。沢山あると無くしたりして、わずらわしいと『旅行用心集』にあり。
そういや相棒のI君は超軽装。財布はカード1枚と紙幣数枚をレジャー専用の財布にしたり…本人曰く「よく忘れるたちで…」
左の写真、肩に掛けているものは、「振分荷物」ひもで結んだ二つの手行李や風呂敷包みを肩の前後にかけ、その中に道中必要な日用品を
入れた。手がふさがらないので便利だった。「脇差」道中の護身のため、左腰に差すようにした。脚絆:手甲と同様、足を保護し、また
歩きやすくするためスネから下にまとった。「菅笠」:スゲの葉で編んだ笠。軽くて、雨もよく防いだ。



左が西駒屋(本陣向い)、右が駒屋(本陣より東へ5〜60mほど)ともに商家。



駒屋の内部。無料で公開されている。最初は棒手振り(魚・青物などを、てんびん棒でかついで売り歩く)、その後はここで店を構えて米穀の
小売り、またその後は土蔵を新築して質屋も始めて、豪商になった。間口は狭いが、奥行きがとてつもなくある。



田村家の末裔が豊川市に寄付、今は指定管理者が運営。カフェも併設されており、それで収益をあげているという。
東側半分はその親族の方の所有。塀越し見える木造建物は相当年季が入って住める状態ではなさそうだ。右は街道沿いにあったヤクルト。



とことこ二川駅まで戻り、17時37分発新快速米原行き(なんと1日に1本のみ)に乗る。



豊橋駅で、知立名物のあんまきのお店があったので、1つ買ってみた。まあ、回転焼きみたいなものですが、大きくてボリュームがある。



豊橋名物といえば、ヤマサのちくわ。豊橋は今日の宿泊場所なので、後ほど書きます。飯田線水窪行きに乗って、小坂井駅まで戻ります。





夕方6時から再スタートです。言い伝えのある「子だが橋」過ぎて、すぐに豊川放水路を渡らないといけなかったが、歩道がなく危険でした。



高橋という名前の橋。ここは歩道設置を訴えたい。



川を渡ったところで、豊橋市に入りました。初夏だというのにうろこ雲。夏の夕方に歩くのは、気持ちのいいもんである。



サークルKがサンクスと合併したはすだが、サンクスとしてまだ残っているお店があるなあという話しをしていました。



下地一里塚跡。そしてようやく豊川が見えてきました。



豊川=とよがわ。午後7時前、もう日没。



今日、広重4枚目、吉田城と豊橋=とよばし。



豊橋市内を歩く。今日の夕食場所は決まっていて、閉店が午後8時。先にホテルに行ってシャワーを浴びてから
ビールを飲みたいところだが、このままお店に向かうことにした。



吉田宿(豊橋)の西惣門跡を復元したもの。吉田宿に西の入口ということでしょう。



菜めし田楽のお店「きく宗」です。創業文政年間、江戸時代より約200年に渡り、"菜めし田楽"ひと筋、昔と変らぬ味とのことです。



冷えた生ビールこんがりと焼いた自家製豆腐に秘伝の味噌をぬった田楽と、細かくきざんだ大根の葉を混ぜ合わせた"菜めし"。
三河だけあって、八丁味噌なんですね。少し甘かったです。菜めしは、細かすぎて正直よくわかりませんでした。



今日は札木まで。豊橋は路面電車が走っている街、せっかくの機会なので豊橋駅まで乗ることにしました。



ところが、今日は豊橋公園で納涼まつりがあったようで超満員電車。乗らなきゃよかった。



K君から豊橋の夜は熱いと聞いていたが、驚くほど活気があった。みんな元気だな。



ビジネスホテル三井にチェックイン。一人3900円。古いです。今日は38キロ歩きました。




inserted by FC2 system