8 豊橋(吉田宿)から浜松まで
8 豊橋(吉田宿)から浜松まで





早朝、5時にホテルを出る。札木からスタートする。篠嶋屋のえびくずし味噌煮込みうどんの看板が気になる。



左手にホテルクインシーズ、テラスもあって良さげだな。調べたらバス・トイレ共用だけどシングル3241円(税抜き)でした。
さて、すき家かマクドなどの24時間営業店が豊橋にはあるのではと思ってましたが、すき家は午前9時開店、マクドも早朝から
は開いていませんでした。仕方なく、セブンイレブンでパンなどを買い込み、吉田城址の豊橋公園で朝食を食べることにしました。
右は吉田城大手門跡地です。



知らなかったのですが、これが昭和6年建立の豊橋市公会堂です。ヨーロッパ建築のようです。しかも双頭の鷲。



右が吉田城址です。1505年に今川氏の将・牧野古白によりこの地に今橋城が築かれたことに始まる。
1522年、今橋は吉田に改称された。1590年、徳川家康の関東移封に伴い、池田輝政が15万2千石で入城し、
城の拡張と城下町の整備を行った。輝政は関が原の戦いの後、在城10年で播州姫路に所替えとなる。



豊川のそばに、隅櫓(かつては9棟の櫓があった)が復興され、なかなか良い佇まい。
明治になって吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれた。





国道1号線に合流したところで、向いに大きな灯籠があり、その横に北東に伸びる道が多米街道という。静岡県湖西市まで繋がっている。



今日の目的地である浜松まで39キロとある。遠いなあ。



マクドナルドのところで旧東海道に入る。



なめらかなカーブを描き、古い民家もある。それが街道である。



おっ、突然、フィリッピンバーが現れた。江戸時代には考えられないなあ。飯盛女の商売敵になること間違いなし。



日本で花火が製造されるようになったのは16世紀の、鉄砲伝来以降である。1613年に徳川家康が江戸城内で花火を見物したという。
この花火の1種が、手筒花火である。徳川の砲術隊が三河岡崎にこの技術を持ち帰り、三河・遠州で、花火(手筒花火)が盛んになったともいう。



雨が降ってきた。昨日まで雨の予報は無かったのに、西から雨雲が急速に近づいてきているみたいだ。



二川に近づいてきたみたいだ。雨は大粒だが、まだ何とか傘無しで歩ける。



またもフィリッピンバー。多いねえ。



午前7時35分ごろ、二川駅に到着。ここにも、うば車屋があった。



右が二川宿本陣です。午前9時開館なので昨日のうちに見学したのが大正解でした。



右は八幡神社。





6月下旬はまだツバメのシーズン。あちこちで見かけました。



ここでJR東海道線を越え、川を渡る。



新幹線のガードをくぐったところで、国道1号線に再び合流。



国道1号線沿いは、歩いていても面白くないね。でもこんな看板を写真に撮ったりしてました。



東京日本橋まであと、287キロ。ということは浜松で全行程の半分となるわけだ。湖西方面に行く。



二川宿の絵になる場所がなかなか見つからなかったが、湖西方面に曲がる手前の所としました。



一里山東の交差点を左に曲がります。



道路右手(東側)の原野に忽然と石像が立っている。恐らく旧道はあそこにあって、新道のつけ替えでこうなったのでは?!
ついに静岡県に入りました。境川があって、そこに境橋があり、そこが三河と遠江の国境ということなんですが、気がつきませんでした。



これより白須賀宿。二川宿から5.8キロ。



白須賀宿は江戸時代の様式を残す建物が多く残されているが、見学できるような施設はありません。



左が問屋場跡。右が本陣跡で、現存せず。



曲尺手(かねんて)。直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割のほか、大名行列同士が道中かち合わないようにする役割もあった。
格式の違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りて挨拶するしきたりでした。しかし駕籠から主君を降ろすことは、
行列を指揮する供頭(ともがしら)にとっては失態であり、そこで斥候を行列が見えない曲尺手の先に出して、行列がかち合いそうなら
休憩を装い、最寄のお寺に緊急避難したとのことです。潮見坂へ向います。



白須賀小・中学校の校門にはポルトガル語とスペイン語の表記があり、どうやら南米からの人々が働きにきているようです。
ここは潮見坂を上りきったところなので、津波等災害時の避難所になっている。



広重の白須賀宿。ぴったりの場所がありました。



ここ潮見坂上はかつて、織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰るとき、家康が茶亭を新築して信長をもてなした所である。
右手に「おんやど白須賀」休憩施設がありました。現在9時55分ですから、5分ほど待てば開館です。



休憩施設だけでなく、資料館も併設されていて見逃せない場所です。ここにも天狗面を背負った人が。金毘羅道者ですね。



往時の街道風景を再現していて、おもしろい。

    

白須賀宿は元来、潮見坂の下の海岸沿いにありましたが、宝永4年(1707年)の地震・津波により大きな被害を受け、潮見坂上の台地へ
移転となりました。高台移転とは、今も昔も変わらないということですね。本陣1、脇本陣1、旅籠屋27軒あった。



ここが潮見坂。遠州灘が見えます。



突き当たりを左(東)へ曲がる。



今から300年前にあったとはいえ、東南海地震がいつ起こるかわからないので、高台に上がる避難経路は常に意識しないといけない。



左は、一里塚跡と高札場跡です。



松並木は、江戸時代のものでなく、数十年前に植えられたものです。



国道1号線に合流したところで、風炉の井戸を見に行きます。



言い伝えによると、1190年、頼朝が上洛の折、橋本宿に宿泊したときに、この井戸水を茶の湯に用いたとされる。



橋本の交差点を左に曲がる。



平太郎というたこ焼き屋のところが、棒鼻跡。ここは新居宿の西境で一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て、
枡形になっていた。棒鼻とは、駕籠の棒先の意味があるが、大名行列が宿場へ入るとき、この場所で先頭(棒先)を整えたので
棒鼻と呼ぶようになったといわれる。右は一里塚跡。



街道を歩いていて、スーパーを見かけたのは初めてのような気がする。



左は飯田武兵衛本陣跡。建坪が196坪、小浜、桑名、岸和田藩など約70家が利用した。隣には疋田八郎兵衛本陣跡があった。
疋田本陣の方は、吉田藩など約120家が利用。(新居宿には3軒の本陣があった。)ここの交差点を東へ行きます。



旅籠 紀伊国屋。ここの創業者(小野田姓のち疋田)が紀州の出身で江戸時代のはじめに新居に来て、茶屋を営んだという。 元禄16年(1703年)には紀州藩の御用宿。昭和36年に廃業するまでの約250年にわたり、旅館業を続け、
平成13年に復元整備され、当時の姿が蘇った。



右の奥の壺が当時の鰻の蒲焼のたれ。覗き込むと、当然ながら干からびていた。ここ紀伊国屋の鰻の蒲焼は街道でも評判であった。
新居は関東と同じ背開きであり、豊橋は関西流であった。新居は食の境界でもあったようだ。



なぜか湯殿に由美かおるの写真が置いてあった。平成13年あたりに来訪されたとのこと。入浴はされていない。



江戸時代は平屋の旅籠であった。明治7年の火事で焼けた後に2階建てに建て直した。
明治初めの建築は江戸時代の建築様式と基本的に変わりない。



昔の人は1日に40キロ歩き、3足も草鞋を変えたとここの管理人。結構、お金が要ったんですよと。
また、旅籠では知らぬ者同士が一緒になり喧嘩も多かったとのこと。次に向ったのは新居関所です。



新居関所は何と天下統一した1600年に今切関所として設置。江戸に持ち込まれる鉄砲や武器に目を光らせるとともに、
江戸から出る女性に特に厳しい調べを行った。1702年までは幕府直轄で関所奉行が任務にあたっていたが、
それ以降は三河国吉田藩に移管された。1854年の安政の大地震で大破したため、現在の建物は1855年に建てられたもの。
日本で唯一現存する関所建物である。写真は面番所で、関所改めを行ったところ。東海道の通行者はここで検分を受けてから、通行を許された。



関所は常に浜名湖岸に建ち、構内には東海道の新居・舞坂間を結ぶ今切渡しの渡船場があり、浜名湖を往来する旅人の監視と、
「入り鉄砲と出女」を取り締まった。



改め女という通行の女を調べる女がいた長屋は足軽勝手(足軽の休憩室のこと)の西に建てられていた。
女改めは、江戸から出る女だけでなく、上り下りの女を調べた。もちろん人質として江戸に滞在させた大名の妻・子女が国元に帰ってしまうのを
防ぐ目的もあった。女性は通行手形を必ず所持すること、また手形には発着地・身分・人数・年令・乗物の有無などを記載することが定められ、
素性に応じて次の区分が明記された。禅尼:身分の高い人の後室やその姉妹で髪を剃った女性。尼:普通の女性で髪を剃った人。比丘尼:女の僧。
髪切:総髪の先を切り揃えている女性。小女:0歳児から振袖を着用するまでの年頃の女児。



新居番所の宿駅(1862年)



関所内に今切渡しの渡船場が復元されており、ここで広重の絵(当時は新居でなく荒井宿であった。)とともに写真を撮る。



新居駅まで約15分ほど、昔は渡船で渡っていたので、われわれも歩かずに鉄道を利用する。



13時1分の浜松行きに乗る。新幹線が在来線のすぐ北側を走っていた。





次の駅である弁天島駅で下りる。プラットフォームがやたら広い。



観光地らしく、駅前には温泉のある大きな旅館がありました。



弁天島海浜公園になっている。浜名湖一帯のリゾート地の1つとして、海水浴・釣り・潮干狩りなど多くの客が訪れる。



舞坂宿で本日最後の広重の絵とともに。



渡船場跡北雁木を見たあと、脇本陣に向うところで雨が降ってきました。



脇本陣がありました。その向かいが本陣跡でしたが、本陣の方は跡形もありませんでした。



旧東海道宿では唯一現存する貴重な脇本陣。脇本陣は大名、幕府役人等が本陣で宿泊・休憩できないときに利用された
施設で普段は一般の旅籠屋として利用されていた。



当時は主屋・繋ぎ棟・書院棟で構成されていたが、現在は書院棟のみが残されている。



13時45分、雨が本降りになってきたところで、街道筋から徒歩数分北のところに浜松餃子で有名な浅草軒分店があり
雨宿りも兼ねて、昼食をとりました。人気店だけに次から次へと人がやってきます。しかし回転が速く、すぐに店内に入れました。



回転が速い理由がわかりました。これはわれわれにとっては衝撃的なことでした。
I君「ビール置いてますか?」お姉さん「ないです。」 ここは本当に庶民的なお店で、ラーメンと餃子を食べて皆さんさっさと帰られます。



傘をさして歩く。写真は一里塚跡。街道の両側にありました。



国道1号線と交差するところです。この先に舞坂の松並木があります。



舞坂の松並木。右の小僧は「浪小僧」。昔、この小僧が漁師網にかかり、殺そうとしたが小僧は「海が荒れるときは太鼓を叩いて知らせるから
助けてくれ」と命乞いしたため、海に戻されたという。それ以降は海が荒れる前には海の底から太鼓の音がするようになったという。



「舞坂・今切真景」の説明書きがあった。東海道の陸路は舞坂で一度切れて、新居宿まで海上一里半船を便りとして渡ることになる。
浜名湖はかつて遠淡海(遠江)とうたわれる淡水湖であったが、1498年の地震により切れて入海となった。その切れ口を今切という。
地震による被災から復興して今切渡船の発着地となり、舞坂は交通の要所となった。



コンビニで雨宿りをして小降りになったところで再スタート。右は街道沿いにあったハンバーガー屋。ぎょうざバーガーがあった。



右は篠原の高札場跡。



JR高塚駅付近に「麦飯長者屋敷跡」があるらしいのだが、気が付かなかった。



左手に「炭焼き さわやか」という静岡県にしかないファミレスがあった。炭焼きハンバーグが人気だそう。満員でした。



国道257号線は、浜松市西区から岐阜県高山市まで繋がっている。ようやく道が北へ曲がるところまで来た。



次の雨雲が西からやってきた。浜松駅まであと3キロ、バスに乗ろうかとも思ったが。



新幹線の高架下が見えてきた。何とか、成子の交差点まで来た。旧東海道ウォークはここまで。あとは駅に向うのみ。



午後5時31分、浜松駅に到着。歩行距離42キロ。



午後5時47分発豊橋行きに乗れました。車窓から雨が強くなっていることがわかりました。

    

午後6時30分発名古屋行きの特急に乗りました。写真のゴージャスな特別車は最後尾に連結されており、
ミューチケットと呼ばれる特別車両券(350円)が必要。メリットは@座席間隔の広いリクライニングシート 
A一般車に比べ静粛性が優れている B専用の化粧室があり、安心 などとあったが、今回は一般車両に乗った。

    

新幹線ホームのきしめんを食べて帰りました。人気があり、皆さん、並んで食べています。



右の写真は新大阪駅の551のお店ですが、ひときわ長い行列を作っていました。大阪のみやげは551で決まり。
次回は、秋かな。



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