中国街道 後半 神崎川から高麗橋まで
中国街道 後半 神崎川から高麗橋まで





橋を渡ると、大阪府淀川区加島。





お寺があったり、道も曲がりがあり、まさしく街道の面影がある。



11月24日、アゼルバイジャンのバクー、ロシアのエカテンブルクに大差をつけて大阪が開催地に選ばれた。
相当、審査員にお金をばら撒いての勝利、そんなの有りなんだろうか? 夢洲で万博、そしてカジノと使い道の
なかった人工島にお金が動き始める。そしてJR桜島駅からの延伸、地下鉄中央線、京阪中の島線の延伸も。



左の古い社屋は、「ぼんち揚げ」というお菓子で有名なぼんち鰍フ本社である。タクシー会社と共通の敷地であった。
右は老舗の米穀店の前にあった珍しいお米の自動販売機。



ここもジグザグな道である。三津屋南2丁目付近、右はJR貨物線の線路。



右:十三筋に出ると博愛社のキリスト教会や福祉施設があった。









猥雑な雰囲気の十三の街中を通る。



いよいよ淀川を渡ることになる。



ここが十三の渡し跡である。休憩する茶店もあり、今もある十三焼き餅(今里屋久兵衛 創業享保12年〈1727〉
阪急十三駅西改札口すぐにあったそうだが、不明)が売られていたそうである。
明治11年に十三橋(木橋)が出来たために、渡しが廃止となり、明治42年(1909)の淀川の大改修
で川幅が広まったため、川の南側の乗り場は川底になったとのことである。



ここからの眺めは壮観である。対岸は梅田の大都会。梅田方面行きは3車線だが、十三方面行きは1車線




対岸にあった大正9年の道標。目的地の高麗橋までは1里、池田4里、伊丹2里半、長柄20町、伝法1里。



中津界隈を行く。



JR梅田貨物線のガードには、「中国街道架道橋」とあった。





茶屋町まで来た。私が20代前半まで茶屋町は梅田の外れだったのが、1990年ごろからの再開発とMBS
毎日放送の吹田からの移転により今では若者の街になっている。



そしてその茶屋町の町名の由来がこの中国街道沿いに鶴乃茶屋があったことから、「車乃茶屋」「萩乃茶屋」
などもあった。このような石碑など誰も気づくことないだろう。これは大きな発見であった。



エスト1のところで東へ曲がり、堂山町へ。




堂山町から太融寺町と街道は欲望渦巻く風俗街を通る。





さてさて大人しい西天満を抜けると、堂島川に架かる難波橋を渡ることになる。



天神橋、天満橋と共に浪華三大橋と称される。パリのセーヌ川に架かるヌフ橋とアレクサンドル3世橋を参考にして 製作されたと言われる



これがセーヌ河に架かる橋でもっともゴージャスな橋であるアレクサンドル4世橋。確かにライオン像あり。



橋の長さが108間(約207m)もの大型の反り橋で1661年天神橋とともに幕府が管理する公儀橋とされた。



中の島から今度は堂島川を渡る。そういやパリのシテ島が大阪の中の島に当たり、パリに似ているわけだ。



橋を渡ったところに、大阪証券取引所があり、設立者である薩摩藩出身の五代友厚の像が立っている。
日本最初のフリーメーソンと言われている。



いよいよ中国街道も最終コーナーにさしかかった。





午後4時、ゴールの高麗橋に到着。東京の日本橋とよく似ていた。明治時代、ここに里程元標が置かれ、西日本
の主要道路の距離計算はここを起点として行われた。さて、引き続きこれより京街道を歩くことにする。つづく→





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