4 淀宿から追分まで
4 淀宿から追分まで





宇治川河川敷からのつづき。この細い橋を渡る。






三栖閘門まで来た。ここには資料館や十石船の乗船場があり、ここから月桂冠大倉記念館裏まで運行している。(1200円)
この閘門は伏見港と宇治川を結ぶ施設として昭和4年(1929年)に造られた。現在は使われていない。



伏見港は豊臣秀吉が伏見城築城のため宇治川の大規模な治水工事を行って開いた。それが伏見発展の基礎となった。
秀吉は鶴松、大政所、秀長と立て続けに身内が無くなったので、「不死身」に通じる「伏見」の地を選んで、隠居屋敷
を建築、淀城にあった天守閣を移して指月城としたが、1596年の地震で指月城が倒壊すると、近くに伏見城を造営
した。その2年後の1598年(慶長3年)8月にこの城で最期を迎えた。



三栖神社の前を通って中書島(昔は四方を川で囲まれていた)まで来た。中書島は遊廓であると同時に花街でもあった。
前方に「きらり」というラーメン店に行列が。つけ麺とチャーシューで評判のお店。



京都伏見土木事務所は昔は、伏見長州藩邸であった。1864年7月19日、長州藩家老の福原越後はここ伏見の藩邸から
武装した兵500名とともに京へ進軍しようとした、その途中、伏見街道の稲荷付近から竹田街道を守る大垣・会津・桑名
・鯖江の藩兵と衝突、禁門の変が勃発。長州勢は敗走して伏見藩邸に立ち返ったが、彦根藩や他の連合軍が京橋から伏見
藩邸を砲撃、このため藩邸は焼き落ちてしまったとのこと。



慶長年間(1594-1615)、角倉了以が京都市中と伏見との間に高瀬川を開削するに及んで、この付近は旅人や貨物を輸送する
船着き場として大いに栄えた。しかし明治初年、京都・大阪間に鉄道が開通するに至って次第に寂れ、ここから約50m
のところにある船宿の寺田屋がわずかに当時の名残を残している。



伏見宿は本陣が4軒、脇本陣2軒、39軒の旅籠が連ねていた。
東海道中膝栗毛より。伊勢参宮よりやまと路をまはり、奈良街道を経て山城の宇治にかかり、ここより都におもんむかんと
急ぎけるほどにやがて伏見の京ばしに至りけるに、日も西にかたぶき、往来の人ははやく、下り船(大阪方面)の人を集める
船頭の声やかましく、「さあさあ今出る船じゃ、乗らんせんか。大坂の八軒家舟じゃ、乗てかんせい・・・」





伏見口の戦い激戦地跡。ここの説明書きには以下のことが書かれていた。「1868年(慶応4年)1月2日、鳥羽伏見の戦いが
始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で京橋に到着。ここ伏見御堂を宿陣として戦った。伏見奉行所に陣を置いた
幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら、淀方面に敗走したので、このあたりの民家の多くが焼かれた。」



ところがウイキペディアでは、「新政府軍は更に周囲の民家に放火、炎を照明代わりに猛烈に銃撃したため、
旧幕府軍は支えきれず退却を開始し、深夜0時頃、新政府軍は伏見奉行所に突入した。」どっちが正しいのか?
ここの船着場に大昔から代々いらっしゃる猫に聞くといらいらしながら「諸説あり」とのことだった。



和菓子の駿河屋本店のところの油掛通を右折する。由来は近くに西岸寺があり、昔油商人が門前で転び、この地蔵尊でこぼした油の残り
を灌いで供養し行商に出たところ、商売が大いに栄えたということ。ここに「電気鉄道事業発祥の地」の石碑がある。
明治28年、下油掛より京都駅まで日本最初の市電が営業を開始した。さて、そのまま東へ歩くと、伏見のお酒「黄桜」があった。



昭和の時代、よくテレビのCMでやっていた。初代カッパの清水崑氏の絵。



二代目カッパの小島功氏の絵、うーん、やっぱり味があって色っぽいなぁ。→youtube



大正時代の月桂冠の旧本社を改装した伏見夢百衆、ここのカフェで一休みしたいところだが先を急ぐ。



ここで食べてみたいが、かなりの人が待っていた。



酒粕ラーメンなるものがあった。さあ寄り道したので、街道に戻り先を急ぐ。
西国街道で灘の酒蔵、そして西条、そして京街道の伏見と、街道歩きで日本3大酒どころを歩いたわけである。



突き当りT字路に「右、京大津」の道標あり。右に曲がる。



京阪・丹波橋駅の手前を左折する。






街道沿いのギャラリーの主人に声を掛けられ、展示品を拝見させていただいた。
仁丹などの古い貴重な企業のノベルティグッズが見もの。



近鉄京都線の高架をくぐって、国道24号線を横断する。



左はテスラというアメリカの電気自動車で、一回の充電での航続距離が594キロ。同社のEV用スーパーチャージャーは
約20分でモデルSのバッテリーの半分(約250km分)を充電できる。
墨染まで来た。東海道中膝栗毛にも出てくる。『それより伏見のまちを打ち過ぎ、墨染といへる所にさしかかりけるが
ここはすこしの遊所ありて、軒ごとに長すだれをかけわたしたるうちより、顔のみ雪のごとく白く・・・おしろい
べたべたつけたる女、はしり出て弥次郎が袖をとらえ、「もしなはいりなされ、ちょっとあそびんかいな。・・』」



明治時代から第二次世界大戦終了まで周辺が軍用地であったことから、馬と武運の神社として信仰を集めた。現在は
馬と勝負事の神社として知られており、競馬関係者・ファンの信仰を集めており、競走馬の絵馬が多数奉納されている。



藤森神社の森は東隣にある京都教育大学の豊かな樹木群に連なっており、一体化した森のようになっている。



JR奈良線をまたぐ。




うまそうな柿がなんと1袋100円、買いたかったがあきらめる。



晩秋の人影は長いなぁ。もう16時半近くになっていた。



さあこの先しばらく、名神高速沿いのつまらない道路を歩くことになる。



果樹園(ぶどう園)があるほかは何もない。






勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区にある門跡寺院で醍醐天皇が開基ということで、めちゃめちゃ大きい。



勧修寺を過ぎたあたりに「右:大津・左:京」、右は地下鉄小野駅あたり。小野小町ゆかりのお寺、随心院がある。
世阿弥創作の深草少将の百夜通いの地である。小野小町に熱心に求愛する深草少将。小町は彼の愛を鬱陶しく思って
いたため、自分の事をあきらめさせようと「私のもとへ百夜通ったなら、あなたの意のままになろう」と彼に告げる。
それを真に受けた少将はそれから小町の邸宅へ毎晩通うが、思いを遂げられないまま99夜の雪の夜に息絶えた。



左は元は一里塚だったのかと思わせる塚のある大木、右は小野から左折して奈良街道に入るところ。



ここからは奈良街道を北上する。名神をくぐる。



大宅一里塚。江戸時代に有用であった一里塚であるが近代に入り交通形態の変遷とともに存在価値が薄れ、
道路の拡幅や開発などによって、数多くの塚が取り除かれることになった。京都市内にあった一里塚も近年続々と
姿を消し、この塚も街道の東側が取り除かれ、西側にあったこの塚のみが残されている。
この塚は東海道から分岐した奈良街道の一里塚で、高さ約1.8mの塚上には榎の木がある。



山科の岩屋神社。本殿背後の山腹に岩屋殿と呼ばれる陰陽2つの巨巌があり、磐座として祀ったのが起源である。



時刻は17時45分、ゴール地点まで間に合うかきびしい時間帯になってきた。






国道1号線沿いに坂本にある有名なそば屋があった。



名神・京都東インターに接続する道路の下、これを越すとゴールは間近。



写真撮影も、暗い所でも撮れるモードにした。普通に撮ればもう真っ暗である。



18時17分、ゴールの追分にようやく到着。赤が東海道57次(奈良街道)、青が東海道本筋。



平成26年11月15日(日)にここを歩いたので4年ぶりである。さて京津線追分駅に向かう。



さて夕食は東海道の街道町である山科で食べることにした。




山科の旧東海道沿いにある居酒屋てっぺん。メニューも多くまたおいしい。ここのお店の小学校のお子様に
店オリジナルのコーヒー焼酎の飲み方を教わるとは驚きでした。「ロックはちびちび、サワーはぐいっと飲む。」と。
結局、お酒に弱いのでコーヒー酎ハイにしたのだが、めちゃ美味い。



山科から新快速に乗ると京都で座れる。これで東海道57次は完結した。


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