3 京阪・牧野駅から淀宿まで
3 京阪・牧野駅から淀宿まで





2018年11月24日(土)午前8時50分、京阪牧野駅よりスタートする。





右は船橋川の東詰め、八幡宮の道標と地蔵がひっそりと佇んでいた。



右:樟葉の街が見えてきた。






樟葉の駅を過ぎ、京阪本線の東側を歩いていく。




樟葉の台場。幕末期、開国を求める異国船が大阪湾にも入ってきたので、淀川を遡り京都に侵入するのを防ぐために
築造されたとされているが、実際は京都に入る尊王攘夷派を取り締まることにあった。
慶応4年1月、大坂城から京都に向けて進軍した旧幕府軍は鳥羽伏見で新政府軍と衝突したが、旧幕府軍は後退を続け
戦線を立て直すために橋本陣屋とここ樟葉台場に集結。そこへ新政府軍に寝返った津藩(藤堂家)が淀川対岸の高浜から
砲撃を加えたため、大坂へ落ち延びた。その後跡地は民間に売り渡されたということだが、現在広大な更地になっている。



4年前に歩いたときは、このマツモトというスーパーはなかったなぁ。橋本宿へ向かう。



ここが橋本宿(間の宿)の入り口です。



おや、工事中の建物が多い。4年前と様相が変わっている。




橋本は遊郭で大変賑わったところである。そんな風格を伝えるのが家並みとその軒下に連なる鯉や千鳥の欄間工芸。



これは4年前の2014年当時の写真で、通りの西端の方に銭湯があったのだが、もう無くなっていた。



ご休憩、商談処も無くなっていた。これも2014年当時の写真。



これは現在の写真、古い酒屋の看板があるがもうやっていない。



真っすぐ行くと橋本駅、街道は左折する。






駅を過ぎると、遊郭の雰囲気は全くなくなり、八幡八幡宮の道標が出てきた。
廃墟と化したラブホテルがあるのだが、その向かいは建売住宅が並んでいた。



二宮忠八飛行器工作所跡。愛媛県出身の明治時代の航空機研究者、陸軍従軍中の1889年、「飛行器」を考案、その翌年には、
ゴム動力による「模型飛行器」を製作。軍用として「飛行器」の実用化へ繋げる申請を軍へ二度行なうも理解されず、
以後は独自に人間が乗れる実機の開発を目指したが、完成には至らなかった。「飛行器」とは忠八本人の命名による。
「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と英国王立航空協会は紹介している。



八幡市の街道沿いにはこのような昭和30年代ぐらいに建てられたアパートがあちこちに点在していた。



街道はここで大きく左折し、木津川を渡る。後ろを振り返ると、石清水八幡宮が男山山上にある。



石清水八幡宮がある標高143メートルの男山にはケーブルカーが八幡市駅前から出ている。
平安時代前期に八幡宮総本社の宇佐神宮(大分県宇佐市)から勧請された神社で、京都の裏鬼門(南西)を守護する神社
の代表格として鬼門(北東)の延暦寺とともに重要視された。武家からは特に源氏が源義家が当社で元服したこともあって
武神として信仰し、源氏の広がりとともに壺井八幡宮・鶴岡八幡宮など、当社から各地に八幡宮が勧請された。



発明王エジソンは石清水八幡宮境内に生えている竹がフィラメントの材料として最も適していることを知り、
電球発明(1879年)の翌年から10数年もの間、この竹を使い炭素電球を製作した。右は駅前にある鯖寿司で有名なお店。



木津川を渡る。



木津川を渡ったところに、「さくらであい館」があった。2014年に行ったときは無かったのだが。



淀川河川公園背割堤地区の1.4km続く見事な桜のトンネルを上空から楽しむことができる施設で2017年3月にオープンした。
左は、木津川、宇治川、桂川の3河川が合流する位置にあり、地上25mのタワーからの眺望が楽しめる。



ラブホテルのところで、京都市に入る。






京阪の車両基地を抜けると、街道の面影が残る道になった。



3代目シルビア・S110(1979年〜1983年)。シルビアの歴史は古く、私と同じ1965年に誕生した。




淀城に着いた。この淀城址って、秀吉の淀君のために造らせたものだと思っていたが、大きな間違いであった。
徳川二代将軍秀忠の命で1619年の伏見城の廃城に伴い、3川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に築城した。
なお、淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡址でなく、ここから北方500mの納所にあったものと推定されている。
実はこういうことだ。淀城はもともと室町時代の細川政元が3川合流地点に築いた城で秀吉は側室の茶々の産所とするため
大修築を行った。やがてこの城で鶴松を出産した茶々は淀君と呼ばれるようになる。しかし鶴松がわずか3歳で亡くなると
秀吉は悲しみを忘れるためか1594年(文禄3年)に淀城を廃城とした。



江戸時代、淀城は水車があって、水を城中に引き入れたという。また耕作のために利用され、淀の水車は有名であった。
「淀川渡場径」と書いてある。京阪淀駅から現久御山町一口(いもあらい)安養寺へ参詣者を導くための碑



京都競馬場にはじめて来た。2017年の有馬記念ではお世話になったキタサンブラックが迎えてくれた。



1925(大正14年)に開設された。 沼地に近い地盤に作られたこともあって、非常に馬場状態が悪かったという。



昼時とあって、吉野家が大人気。



奮発してAランチ(1,030円)を食べる。



左は昔の淀駅、2011年(平成23年)に高架の上りホームが完成。
高架化工事の事業費の6割をJRAが地域環境改善事業として負担し、残り4割は京都市と京阪電鉄が折半した。
右は、戊辰戦争東軍西軍激戦之址である。競馬関係者により建立された慰霊碑。昭和45(1970)年、競馬場の拡張工事を
開始すると事故が多発し、真夜中になると「元の場所に戻せ・・・」と隊士の霊が現れた。周辺を探すと、土まみれの
東軍戦死者碑が、土の中から出てきた。 盛大な供養を行い石碑を立て直すと現れなくなったと云う。
石碑には「幕末の戦いほど世に悲しい出来事は無い・・・」



京阪の踏切を渡って、宇治川沿いを歩く。



次へつづく。



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