4 鯰田駅から西鉄筑紫駅まで
4 鯰田駅から西鉄筑紫駅まで





2019年5月19日(日)、早朝5時起床、5時25分チェックアウト、筑豊電鉄の始発に乗る。永犬丸は「えいのまる」と読む。
この付近は昔入り江だったようで、「永犬丸」という船が来ていたため、その船の名前が地名として残ったとのこと。



筑豊電鉄は赤字なのだが、西鉄が経営しているので安泰なのではないかと思う。



すさき商店街、めちゃめちゃ、廃れている。昨夜、ここを通ろうと思ったけど怖いからやめた。



魁皇、福岡県直方市出身、友綱部屋・・・と大相撲の呼び出しのアナウンスを思い出した。
福北ゆたか線は、筑豊本線の愛称である。







筑豊の石炭王、伊藤伝右衛門邸である。伊藤伝右衛門は貧困から身を立てた苦労人、妻には先立たれ大正天皇の生母である
柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる柳原 白蓮と再婚するも、石炭掘りは軽蔑の対象で、結婚も禁忌されるほど蔑視
されていたというのがあったのか、柳原は別の男のための出奔してしまう。伊藤も男前だけあって女性関係は派手だったという。



飯塚の中心街へ。オランダ屋敷跡。オランダ人は鎖国時代に通商の特権を得た代償として、江戸初期は毎年、寛政2年 (1790)
から5年に1回参府して宝物を献上し、世界情勢を報告していました。各地には指定の宿舎がありましたが、飯塚では宿場内の施設
ではなく東構口のはずれにオランダ屋敷が造られており、その理由は明らかでありません。長崎街道ではオランダ屋敷と名の付く
施設は他の宿場にはないようです。江戸に参府して飯塚宿を往来した外国人として、ケンぺル(蘭医)、シーボルト(蘭医)など。



飯塚宿の西構口まで来た。構口というのは宿場の入り口に あって、短い築地塀を設けたもの。
一定の時刻になると門を閉鎖し、長崎奉行や大名の宿泊時などは厳重に警備し、臨時の城郭 の役目をしていた。



長崎街道飯塚宿の街道筋がそのまま飯塚本町商店街のアーケードになっている。女御輿、元炭鉱の町だったので女の人も怖そう。



飯塚宿は宝永7年(1710)と宝暦9年(1795)に大火に見舞われており、現在では完全に商店街化している為、宿場町の面影はない。



飯塚中心街を抜けて左にボタ山を望みながら遠賀川を渡る。渡ってすぐ、開通1612年という長崎街道の石碑があった。
ということは、菅原道真が大宰府に流された道は長崎街道では無かったし、豊臣秀吉のときに京都から長崎に連れていかれて
磔の刑にされたキリシタン26聖人も長崎街道を通ったわけではなかった。→唐津街道であった。
長崎街道の成立は古代大宰府と諸国府を結んだ官道「西海道」や中世の道等を前提に、1590年大村純忠によって長崎が
開港され、その貿易拠点の重要性から各地方散的に存在していた道筋がつながる形で、長崎への往来ルートが形成された。



昔、菅原道真が大宰府に赴任の途中に、四十川の清流で水鏡をした由来で現在の水鏡天満宮となったということ、水鏡天満宮は
福岡市中央区天神という地名はこれが元になっており、唐津街道沿いということだから、道真が通ったのも、唐津街道だと思われる。
唐津街道は上の地図では、北部の海岸線のルート、美野が福岡市あたりである。



これもボタ山なのか、知らなかったけど、石炭を掘ったときに出る捨て石の集積場だったのが山になったということである。



JR天道駅あたり、ここで街道沿いにお菓子の千鳥屋があったので寄ってみる。





千鳥屋は、私の住んでいる関西にも店舗があり、テレビでもよくCMをやっている。しかし千鳥屋の元祖は佐賀であった。
創業は寛永7年(1630年)で、ポルトガル人が伝えた南蛮菓子を作っていたのが始まりで、昭和に入ってから飯塚に拠点を
置き、このときに千鳥饅頭を売り出し、飯塚の名物になっていた。お酒の飲めない松本清張の大好物だった。
関西の千鳥屋宗家は暖簾分けである。ここで丸ボーロと懐かしいチロリアンを食べたが、めちゃ美味かった。♪チロリアン 
関西では食べらない。→CM



実は博多のお土産の代表格の「ひよこ」も1912年に福岡県飯塚市の吉野堂で生まれたのである。飯塚は、長崎街道を通って本州
へ運ばれる砂糖を比較的容易に手に入れられたため菓子製造が盛んだったのと、重労働である炭坑作業の後に甘い物が好まれた。
街道は、筑豊本線とクロスする。この先に瀬戸の渡しと一里塚がある。



瀬戸の渡しは川幅十間(約18m)で歩いて渡ったようである。渡し場近くに旅籠、茶屋、馬つなぎ屋があった。明治初年に
板橋が架けられていたが、明治30年代に対岸に道路ができてからからは利用されなくなった。



秋月街道と長崎街道の分岐点の石碑がある。分岐となる道が現地ではよくわからない。秋月街道は秋月から飯塚までの参勤の道だ
そうである。右の上の地図でわかるように、長崎街道の赤い線が川のところで切れており、まっすぐに行くと街道から外れる
ことになり、すこし回り道してリカバリした。関西ではあまり見かけない麦畑が広がっていた。



街道に戻る手前のところで時刻は11時15分、大助うどん店(福岡県嘉穂郡桂川町寿命)に入る。大衆食堂と街道はよく似合う。





茅葺きの家だったのが屋根をトタンに変え、そして草木に覆われているのはびっくりした。



横山峠、もうすぐ内野宿。





13時20分、内野宿に到着。宿の真ん中から北へ伸びる道は米山街道といって大宰府天満宮までつながっている。
1611年内野太郎左衛門が毛利但馬の命を受けて冷水峠に道を開き、翌年宿場を起宿したという。





本陣跡は米山街道を北へ約200mほど行ったところにあるのだが、旅籠・肥前屋の前で写真をとる。右は、シーボルト
が作曲した楽譜。作詞の中に「かっぽれ」という言葉が入っている。シーボルトは江戸への道中でも小型ピアノを
持参するほどの音楽好きだったという。彼はミュンヘンで亡くなるときの最後の言葉は「美しい平和の国へ行く」だった。



明治8年当時の職業別地図があり、「あそび人」というのがあったが、これは博労(馬や牛の売買)
だったとお聞きした。蔑んだ言い方かもしれない。



脇本陣だった長崎屋(下茶屋)が無料で内部を公開している。NPO法人が江戸時代に戻ろうをスローガンに内野宿の整備
に力を入れている話をお聞きしてその気概に感動した。11月には宿泊もできるようにするとのことです。お風呂はないので、
片道、車で30分ほどのところに二日市温泉にあるのでそこに行ってもらおうとの考え。
今でも郷土料理を要予約(3日前までで提供している。



流れる水もきれいでした。内野宿は国道200号線より離れたので当時の面影が残ったという。



内野宿を出て難所中の難所の冷水峠に向かう。





旧道を忠実にトレースしたのが裏目に出た。旧道はどこかで切れてしまっているのか、道なりに歩いていくとどんどん
離れていった。山での街道歩きは注意を要する。もっと相方のI君のように地図を読めるようにならなければ



左のように何とか旧道から国道200号線の歩道に竹やぶを通ってアクセスすることができた。



これからいよいよ難所の峠道へ。



苔むした石畳、そして竹林と雰囲気が出てきた、しかしまだ序の口。



左の写真:小川が流れておりそれが、冷水峠の由来となった。
3県の森って、ちょっと無理がありそうなんだけど、特に長崎は。



一里塚を抜け、あの坂を登ったところが、ようやく冷水峠か?!



郡境石:是従東 穂波郡、是従西 御笠郡、ここをあの象も通ったのか、この冷水峠があったために長崎街道の開通が
遅れたという。シーボルトは革靴よりわらじが滑りにくいこと、峠の宿で杉板の上にキジと卵に酒宴に招かれた
と日記に記していたという。このあたりのJRはもっぱらトンネルの中を通っている。



西側の下りの峠道はあまり大したことはなかったと思う。国道200号線に出る。





右は長崎街道の旧道であるが、草ぼうぼうでとても歩くことができない箇所もある。



かなり歩いて山家宿(やまえ)に到着。ここは福岡藩主の命で冷水峠に道を開くために1611年に宿を起こして
長崎街道が開設されたといわれている。



本陣跡はすぐにわかり、地元の方に撮ってもらった。





日田街道(青いライン)と交差する追分。



筑紫野市に入った。一九ラーメン、気になるなぁ。福岡県内のみで親族経営50年!→一九



夕方6時20分、目的地である西鉄筑紫駅に到着、そして大宰府政庁を見るために二日市駅へ。



二日市駅からタクシーで大宰府政庁へ。右は平成から令和となったが、令和の引用元の万葉集の歌が詠まれたとされる
大宰府政庁跡にある坂本八幡宮。大伴旅人は730年(天平2年に)正月13日に自宅で役人らを招き、梅の花を題材にした
歌会「梅花の宴」を開いた。そこで詠まれた三十二首の序文「初春の令月にして気淑よく風和らぎ」から令和となる。

大宰府へ728年に長官として赴任したばかりの大伴旅人のもとに天平への改元早々の
翌2年に大納言に任ずるとの命令が下され、その11月に旅人が大勢の人々に見送られて大宰府を後にしている。旅人は
父安麻呂以上の逸材、辞令によると大納言兼大宰府長官の兼職であった。当時、新羅と国交が悪化、こちらに攻め入って
くるような緊迫した情勢にあったので、旅人を日本の最前線を担う地位にあった大宰府長官から更迭すべきでないと
藤原氏周辺で思惑があったか。旅人は馬にまたがり、平城京に向かった1か月の道程は安芸から都まで駅家が設けられた
山陽道であった。大宰府から赴任してわずか半年ばかり経った天平3年(731年)に65歳で亡くなる。



タクシーの運転手に案内してもらったのが、「榎社」。菅原道真が大宰府での蟄居地である。ここで道真は不遇の生活を
送り、見るに見かねた浄妙尼が餅の差し入れを行ったのが、大宰府の門前町の名物の梅ケ枝餅の始まりといわれる。



二日市駅近くの居酒屋さんで夕食を食べたあと、大宰府駅へ。



時代は令和へ。宿はルートイングランディア大宰府。温泉付きの快適なホテルでした。




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