3 黒崎宿から鯰田駅まで
3 黒崎宿から鯰田駅まで





2019年5月18日(土)、久しぶりの長崎街道である。早朝新神戸発6時16分のひかりで、小倉駅へ。そして鹿児島本線
で黒崎駅に到着したのは午前9時38分。JR九州の車両はヘッドレストが付いていたり、窓にはUV加工が施されて
ほかのJR西日本や東海の車両とは一線を画していたように思う。



あいにくの雨である。しかも本降りの雨、実は3日前までは晴れ〜くもりだったのに、直前になって雨予報となる。
本当は前回の続きの地点から出発するつもりであったが、見所がないのとこの先、雨では時間も食ってしまうということ
で黒崎宿からの出発となった。駐車場のところが本陣跡とのことだが、何の痕跡もなく殺風景であった。



黒崎宿は交通の要所で1.1キロに及ぶ規模であった。この櫻屋は旅籠で1808年頃の創業と伝えられ、古くは薩摩藩の
定宿となっていたことから薩摩屋と称していたが後に改称されたという。幕末には薩摩、長州、土佐の勤皇の志士が多く
泊まったという。平成2年に建物が解体され、現在ではマンションとなり当時の面影は何一つ無い。





国道3号線を横断してすぐに、黒崎宿人馬継所の石碑があり、前方に神社がありしかも地図とおりに右に曲がっていたので
長崎街道と思いきや、実はおおきく道を逸れてしまっていた。実は国道3号を渡ってすぐに右に曲がり商店街を通らねばならなかった。



幸神のところで長崎街道に合流。そこは街道で唯一残る松並木であった。松並木は幕府が全国の街道に植樹させた名残で、
黒崎から木瀬屋にかけて昭和20年ごろまでは多くの松が残っていたそうだ。この松並木は長さ310mあるという。



左は幸神の一里塚。道路には長崎街道を示す意匠が拵えてある。北九州市が整備に力を入れているわけである。



11時過ぎになり、街道沿いの朱雀ラーメン店で、あっさりしたとんこつラーメンを食べる。まぁまぁでした。



長崎街道はこれから基本国道200号線沿いに南下していく。右は町上津役西あたりでこの地区の昔の長老の話
「庄屋の命令で15才以上の男衆は如何なる農繁期であろうとも人足としてかり出され、今日は薩摩の殿様、明日は
肥前の若殿様と大名行列の際はあの細い旧道も人馬が行き交い大変活気のある道であった。」





立場茶屋銀杏屋。ここは黒崎宿と木瀬屋宿の間の立場茶屋として参勤交代の諸大名や長崎奉行が休憩したところ。
これまで東海道や西国街道を歩いてきたが、立場が残っているのはここ以外ないのではないかと思う。



「上段の間」をもつ唯一の立場茶屋の遺構が残っている。右は2階に上がって見せてもらったのだが、断熱・防寒効果
なのか?竹の上に藁を置き、その上に3センチほどの土で固めたものがちょうど上段の間の上に拵えてあった。



ものすごい梁、主屋は1836年の火災の後に再建されてもので、庭にあるイチョウの木には焼け跡が残っているという。



「石坂の急坂(きゅうはん)」いまでは大したことない坂であるが、かつてはものすごい急坂で街道の難所であったという。



茶屋の原(はる)の一里塚。八幡西区内には幸神、小嶺、茶屋の原、六本松(木瀬屋宿のはずれ)にあった。小嶺と茶屋の原
の間は距離が一里に満たず、これはさきほどの急坂があったことを配慮したものと推測されるそうです。



木瀬屋宿の東口に来たようである。



曹洞宗永源寺。木瀬屋宿の本陣は木瀬屋宿記念館の敷地内にあったが、明治3年に本陣が廃止されたときにこの門が
永源寺の山門として移設された。




本陣(お茶屋)のほか、大名の高位の家来、オランダ人、一般の上客を泊める脇本陣(町茶屋)が長崎屋と薩摩屋の2軒設置され
ていた。廃藩後、昭和の頃まで本陣跡は岩井屋酒造の酒蔵、脇本陣跡は天理教があったが今では記念館や「こやのせ座」がある。



道中記(旅行案内書)には名所、旧跡などの観光地の解説、宿場間の距離、それに火打ち石道具・手拭い・鼻紙・針・糸・短刀・
日時計・磁石・扇・矢立て・髪結道具・小算盤・薬・枕・弁当箱・ロウソク・提燈・風呂敷・綱三筋などを持参せよ、といった
細かい注意事項も書かれている。旅の食事用として木賃宿に宿泊する者は干飯などを持参したが、旅籠では朝・夕食とも
提供されるので金銭だけで事足りたという。



旧高崎家住宅(放送作家:伊馬春部の生家)1835年頃の建物で屋号を柏屋(カネタマ)といった。そのころは絞蝋業を営み
明治に入って醤油醸造業となる。右は、井伏鱒二や太宰治と一緒に写真に写っている。一番左が伊馬氏。



今と昔の木瀬屋宿の西構口である。今は生コンの工場があって興ざめだ。



追分道標。是従(これより)右赤間道 左飯塚道」裏は元文3年(1738年)建立とある。赤間は福岡への唐津街道に通じる道、
左の道は長崎街道で飯塚まで4里30丁。右は実物で郷土資料館に展示されている。





しばらく遠賀川沿いを南下して、橋を渡る。



直方市に入ったようです。昔は開店祝いによく見かけた派手な花飾り、懐かしい。



ここも例にもれずシャッター街でした。直方は福岡藩の支藩で5万石であったが4代目の死後、その子が福岡藩の藩主となったため
藩主の御殿も解体されたという。右は直方宿の西構口で、現在は西日本銀行直方支店となっている。





左は向野堅一記念館である。日清戦争のとき特別任務を命ぜられ、九死に一生を得る。これからは商業の時代であるという信念を
もって北京・奉天・大連を舞台に銀行等を設立。台湾に仏教布教や、また書画、謡曲などの芸術にもたしなみ、アジアの平和を願い、
終始、人を愛して、国を憂いては命をかけた不屈の男といわれる。



長崎街道は、直方からJR筑豊本線と交差し、南下する。かつては石炭輸送が盛んで炭鉱などに通じる多くの貨物支線があった。



街道は遠賀川と国道200号線と並行に南下。国道200号は通称長崎街道といわれ、旧長崎街道をトレースしている。



直方市を抜けると、ここは福岡県鞍手郡小竹町、JR小竹駅まで来た。時刻は6時20分、まだ明るいのでもう一駅歩くことにした。





小竹は木瀬屋宿と飯塚宿の間の宿で、休憩処であった。851mの町並みがあった。ここで吉宗に献上された象のことが解説されていた
のでここに転記する。「時は享保13年(1728年)6月、長崎港に象が中国商人の唐船で運ばれてきた。はるばるベトナム・ホーチミン
からの牡7歳、雌5頭の小象である。船旅疲れで弱っており、回復まで唐人屋敷で飼われる。しかし9月、雌象は病気で死んでしまったので
牡象だけ江戸城まで陸路約354里を徒歩で歩くことになった。3月13日早朝に長崎を出発し、峠を越え、川を渡り、各宿場に泊まりながら
肥前田代宿(佐賀県基山町)から国境を越えて筑前原田宿に入ったのは6日目の3月18日だった。そして山家→内野→飯塚宿を進み、
3月21日にここ小竹で休憩をし、昼食をとったという。それから遠賀川の渡しでは象は臆病のため、怖がったが馬舟を2艘繋いで、板床で
加工して乗せたという。そして木瀬屋→黒崎→小倉常盤橋→大里と進み、大型船で海を下関へ渡り、山陽道を上り京都では「広南従四位白象」
という位をいただいて御所に参内し、中御門天皇に拝謁した。そして5月27日難儀の末、江戸の吉宗公のところに到着した。
献上象の一行は次のようなものものしさであったという。
荷物運びの人足8名、象使いのベトナム人2名、日本人助手2名、道中の世話役は10名の侍・足軽が付き、それに馬9頭。
宿場に着けば、次の宿場に先触れが出されて道は清掃され、幕府直々に象の食料の用意に万全を期すよう諸国大名に配慮するよう触れを送って
いる。なお1日分の象の食料として、新藁200斤、笹葉150斤、芭蕉2本、餡なし饅頭50個、橙50個、みかん30個など





1713年にここ小竹で竹藪騒動があった。薩摩藩江戸屋敷に公用荷物を運ぶ一行は、飯塚宿が混雑して泊まれず、午後7時に飯塚を出発して
午後10時に小竹に到着、しかし小竹は宿泊ができない間の宿だったので立場茶屋で食事が品切れでお茶だけ飲んで出発、そして遠賀川を渡しで
行こうとして竹藪に覆われた川土手で5人の盗賊に襲われた。宰領内田忠左衛門は2人を斬るが、自身も負傷し、渡しの追分を見過ごして
直方藩の城下に辿り着き、案内を乞うが開けてもらえず、午前5時小竹に引き返してきた。立場茶屋の源右衛門は血まみれの侍が昨夜の薩摩藩士
であったので驚き、土間に筵を敷いて寝かせ、医者を呼んで応急処置をしてもらい、町の有力者(龍徳屋)に連絡、そしてそこから庄屋に通報、
そして庄屋から直方藩にも連絡がいく。自藩内での事件発生は藩の一大事であり、藩は迅速に動き、藩医と外科医を派遣、応急処置をした小竹の
内科医の医術に驚嘆したという。逃げた盗賊の3人はその後捕まり、遠賀川河原で斬首。刑場には大勢の見物人が押し寄せたという。薩摩藩主島津
吉貴は手厚い看護を受けた謝礼に、龍徳屋を「小休み処」に定め、これで無名の間の宿、小竹が筑前6宿(原田、山家、内野、飯塚、木瀬屋、
黒崎)に次ぐ7番目の宿に相当するほど有名になったという。



左は郡界石(嘉穂郡と鞍手郡)である。



遠賀川沿いに鯉のぼりがはためいていた。風が強い。



今日は鯰田(なまずだ)駅で日没終了。



いったん、直方駅まで行って、そこから7分程度歩いて筑豊鉄道の筑豊直方駅へ。



なぜかこの日は飯塚、直方周辺のホテルはすべて満室で、永犬丸駅から徒歩15分のところにある北九州ハイツという宿泊施設まで行くわけ。



夕食はガストで。とにかく安い。あまり飲めない僕はこういうところで十分満足、財布にも優しい。



スナックえんどう、最高。疲れていたので右のような状態で宿に向かう。



北九州ハイツ、めちゃ広い部屋、大浴場あり、静か・・・最高でした。☆☆☆☆☆



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