2 大里宿から北九州市八幡東区祝町付近まで
2 大里宿から北九州市八幡東区祝町付近まで





青いラインが歩いた跡



2018年10月8日(月祝)、長崎街道のプレスタートとなる大里宿を後にして、小倉に向けて歩く。
すると右手にイタリア・ベネチアに行ったときに見たことのあるサンマルコ大聖堂を目にした。本物そっくりである。
これ海側から眺めるとさらに現地の雰囲気を味わえるようですが、やはりアモーレヴォレ・サンマルコという結婚式場でした。



大里からの道が行きどまりとなり、国道199号線に出る。すると仕事でお世話になっているZのマークの工場があった。



向こうに見えるは八幡製鉄所か? 日清戦争の賠償金の一部で設立されたらしいが。






門司口門跡付近。九州大名が、常盤橋付近の本陣で一泊し、大里に向かう参勤交代で通った道。




北九州モノレールは開業(1976年)以来、小倉駅の手前までだったのでずっと赤字だったが、1998年にようやく
小倉駅乗り入れを果たし、黒字化した。商店街を通って、長崎街道の起点となる常盤橋へ向かう。
小倉は古くから交通の要所で大宰府政庁があったころから官道が開かれた。





長崎街道の正式な起点となる常盤橋に来た。江戸時代、この橋周辺には九州の諸大名が泊まる本陣、旅籠が多数あったそうだ。



左のZのビルがあのゼンリンの本社。地図業界ではナンバー1で、グーグルマップの地図情報もこのゼンリンなのである。



間口15間(約27m)もある小倉で二番目に大きな門構えのある本陣「村屋」跡。薩摩・肥後藩の本陣であった。



さてせっかく小倉に来たからには、小倉城を見ておかねば。



城内に八坂神社があり、ここの主がトラ猫ということらしい。



左は宮本武蔵の「誠心直道之碑」である。武蔵にとって小倉での滞在は7年に及ぶという。慶長17年(1612年)4月に
小倉を訪れ、細川藩家老長岡佐渡を訪ね、佐々木小次郎との試合を依頼した。長岡佐渡は藩主細川忠興の許しを得て4月13日
に舟島(巌流島)で立ち会うことになった。(二天記より)長岡佐渡の屋敷跡は現在の小倉城の庭園であり、武蔵はこの
屋敷に滞在したという。「誠心直道」とは武蔵創始の兵法二天一流の真髄である。小倉城は江戸期以前の建物は第二次長州征討で
小倉藩自らによる焼却で全て失われたが、一部の石垣・堀が残り、天守・櫓・庭園と大名屋敷が再建されている。



小倉城内に北九州市立松本清張記念館がある。小倉が郷里ということらしい。寄り道したが、再び長崎街道に戻る。





左は小倉城の10か所の門の一つである清水口門跡です。ここらへん裁判所や拘置所があり、もとの城内は広大な敷地で
あったことがうかがわれる。右は道路に埋め込まれた長崎街道の道標である。



日豊本線(小倉―大分ー延岡ー宮崎ー都城ー鹿児島)の線路を越す。





この長崎街道の碑は、昭和41年1月に、都市開発が進み祖先の残した文化的遺産が失われようとしているとき、ここの老人
クラブが建立したもの。先人は立派なことをしました、ぜひこの精神を若い人たちが引き継いでほしいものです。



この橋梁は明治24年に開通した九州鉄道大蔵線の施設である。九州鉄道は門司・黒崎間の鉄道敷設にあたって、経営効果の
高い海岸沿いを計画したが、陸軍の反対にあい、小倉からは小倉北区清水、八幡東区茶屋町を通り、現在の鹿児島本線沿い
黒崎に至る路線に変更した。のち戸畑線(現鹿児島本線)の開通、九州鉄道の国営化等で明治44年に廃線となった。



午後6時50分、残念ながらここで(八幡東区祝町付近)日没終了とする。八幡駅まであともう少しでしたが。



西鉄バスで小倉駅まで戻る。40分もかかった。さて小倉で反省会をするのだが、何を食べるか、名物焼うどん?



いまいち、決め手に欠いたが、新幹線が夜9時9分発だから、ゆったりできるお店にした。山賊焼きなんだが豪快さに欠ける。

    

『死と禁忌』2018カナザワ映画祭でやっていた変態映画の特集、右は北九州の観光大使・声優の高田憂希。知りませんが。



八幡製鉄所が世界文化遺産なんですね、機会があればいずれ行ってみよう。



JTBや日本旅行で取り扱っているひかり・こだま得トク切符、なんと小倉→新神戸間 通常料金13,290円のところが
半額以下の6,600円。これは本当に助かる。しかし、ひかり号の小倉発の夜便はこの21時9分の1本だけなので、
ほぼ満員でした。みんなよく知ってるわ。次回につづく。




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