1 プレスタート 下関から大里宿まで
1 プレスタート 下関から大里宿まで





2018年10月8日(月祝)、さて午前中に旧山陽道を歩き終え、逆戻りして九州への海底地下トンネルの入り口まで来た。



はい、関門トンネルです。昭和33年に開通したとのことで60周年を迎える。昭和33年といえば、長嶋茂雄が4打席4三振
でデビュー、王貞治が巨人に入団が決定、富士重工業がスバル360を発売、本田技研工業がスーパーカブを発売、日清食品が
チキンラーメンを発売、日本コカコーラがファンタを販売などの出来事があった。



国道2号線でした。この国道トンネルは関門海峡の最狭部に昭和12年に着工され、戦争により工事が中断、昭和27年に工事が
再開され、昭和33年3月9日に開通、これ世界初の海底トンネルなんだって。全長780m、海面下58mのところにある。






田野浦公共臨港鉄道というセメントや飼料の貨物線であったが2008年に廃止、北九州市が観光スポットとして
整備した門司港レトロ地区にトロッコ列車として復活、門司港駅→九州鉄道記念駅→出光美術館駅→ノーフォーク
広場駅→関門海峡めかり駅までの総延長2.1キロ。



左が出光美術館、書画や陶磁器の展示なので興味がなく通過したが、創業者の出光佐三の生涯の軌跡を紹介している
出光創業史料室もあり、こちらは最近『海賊と呼ばれた男』を読んだので、あとで、すこし後悔する。
右は大連友好記念館。昔は大連航路があり、門司港は大陸貿易の拠点であった。これはもともとは1902年に
東清鉄道汽船の会社の事務所として建築され、戦後は集合住宅、1996年に復元された。背後に見える高層マンションは
黒川紀章氏が設計したもので門司港レトロマイハートというマンション、最上階が展望室になっている。このマンション、
景観問題で訴訟にまで発展したという。→ウイキペディアしかしながらアンバランスさは否めない。



門司といえばバナナである。バナナが日本に輸入(当時台湾は日本領土だったので「移入」)されたのは明治30年頃で当時
基隆の商人が神戸に持ち込んだのが始まりである。それが大量移入されるようになったのは明治41年から終戦の4〜5年前までで
門司港から産地台湾と地理的に近いこともあって大量に荷揚げされ、市場が設けられた。



バナナは青いまま船積みされて、到着したら仲買人の手によって地下の室(ムロ)で蒸されて、黄色になって商品として販売
されるが、たまに輸送中に蒸れて熟したものについてはできるだけ早く換金するために露天商などの手を経て、口上に工夫を
凝らして客を集め、売りさばかれるようになった。この様子が全国に知られて、門司港は「バナナの叩き売り」発祥地とされた。
左はバナナの妖精の「バナナ姫ルナ」



門司港は神戸と同じく洋食屋が賑わい、昭和30年代にとある喫茶店で余ったカレーをグラタン風に焼いたところ、これが美味く
仕上がったのがはじまりだといわれている。まぁ、単にカレーライスにチーズをのせて焼いただけなんだけど。



ここは確か三井物産の迎賓館(旧門司三井倶楽部)だったと思う。現在はレストランになっている。
大正11年11月にアインシュタイン夫妻が福岡での最後の講演のためにここに滞在し、そして上海に行ったのだそうだ。



旧三井物産門司支店(現JR九州第一庁舎)、コーネル大学卒の松田軍平の設計で当時九州一の高層建築であった。



左は旧大阪商船三井のビルであるが、わたせせいぞう展をやっていた。



この下関・門司のベイエリアは、下関の唐戸市場でお手頃の寿司を食べて、関門トンネルの地下を歩いて渡って、門司のレトロ
の街並みを見て、焼きカレーを食べて、フェリーに乗って下関に帰るという観光パターンが出来上がっているようです。



残念ながら改修工事中でした。駅としては日本で初めて国の重要文化財に指定され、老朽化への対応や耐震補強を行うため、2012年に
保存修理工事が始まり、創建時(大正3年)の姿に復原することを基本方針としており、2019年3月にグランドオープン予定。



駅構内でもバナナの叩き売りが。当時は叩き売り商人が一人や二人どころでなく、通りを連ねて30〜40人も
競って叩き売るのでそれは門司港の名物であった。それも第二次大戦が激化するにつれてバナナの姿も消えていった。



門司港駅、なんて素晴らしい駅なんだろう。まるでヨーロッパの終着駅のよう。こんな駅は日本ではここだけではないか。



これはパリのサンラザール駅です。門司港駅はヨーロッパの駅を模倣して建築されたのは間違いない。




鹿児島本線(門司港駅から鹿児島駅まで)で、門司港駅から一駅目の小森江駅へ。



国道199号線に出てみると、子供のころよく目にした「ばら印」の白砂糖の関門製糖の工場があった。
もともとは鈴木商店大里製糖所だったが、その後大日本製糖、明治製糖などに変わって、現在は関門製糖になっている。



(左)西生寺は幕府によって宗門改めの政策が布かれ、判行寺(踏絵寺)とされ、毎年3月に踏絵が行われていた。
長崎街道の表示がありました。



明治・大正時代に造られた赤レンガ倉庫、神戸にもあるがやはり港町ならではである。



左は大里宿番所跡。右の石碑はオランダ使節が江戸への往復の途中に宿泊した小倉藩の施設があったとのこと。



ここが大里宿の本陣(お茶屋)跡です。ここ以外にも、幕命により測量を行った伊能忠敬が宿泊した重松彦之丞
の本陣屋敷跡などもあった。右は一里塚跡である。



レンガ倉庫前にある石碑は豊前大里宿址である。大里宿は細川忠興は本土への渡海は大里が最適とし宿駅を設置。
以来九州大名の8割がここを利用したので繁栄した。大里宿は5町51間(646m)の町並みで、本陣、脇本陣、
番所、馬継所、旅籠屋が立ち並んでいた。西隣には長崎番所が設けられた。右は江戸時代、ここの番所前が本土渡海
の湊口になっており、長門国赤間ケ関へ船で渡ったことを表している。長崎から運ばれた象もここを渡った。



神戸の鈴木商店は、明治36年(1903)年に、大里製糖所(現・関門製糖)を設立。以後、大里製粉所(現・日本製粉)、
帝国麦酒(現・サッポロビール)、大里酒精製造所(現・ニッカウヰスキー)、神戸製鋼所(現・神鋼メタルプロダクツ)など
大里の臨海部に鈴木コンツェルンを形成する。鈴木商店の事業は、対岸の下関にも及び、大正初期は関門海峡は鈴木の王国
とされた。大里には鈴木商店当時の煉瓦造りの建造物が多く残り、その多くは近代化産業遺産になっている。
次につづく。



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