6 神埼駅から肥前山口駅まで
6 神埼駅から肥前山口駅まで





2019年6月8日(土)、新神戸発6時16分発のひかりで博多へ。博多からつばめで新鳥栖へ。新鳥栖から在来線で神埼駅へ
吉野ケ里遺跡には行きたかったが、これで半日を費やすのはもったいないので断念。やむを得ず車中からのシャッターチャンスで。



神埼駅到着は10時25分。





景行天皇ゆかりの櫛田宮の前で。境内にはオランダ大砲があるという。



旧古賀銀行神埼支店(国登録有形文化財)、古賀銀行本店はこの後、佐賀で素晴らしい本店を見ることになる。



右は眞光寺、確か脇本陣だったかな。ここもカギ形になっておりこれは城下町同様、通し矢による損害を避けるため。



本陣は現在、勤労者体育館になっているそうだ。



神崎宿を出て城原川を渡る。



川沿いを南下する。左の写真、この向こうに本告城跡があるとのことだが。櫛田宮の社殿造営の勅使として、鳥羽天皇が
下向させた本告道景がそのまま土着したという。街道は佐賀方面へ、この先のT字路を右へ行く。



佐賀方面を西へ向かうT字路交差点に、更科という大衆食堂があった。もう正午だったので早くも昼飯にする。
とり天定食にしたが、たれが甘過ぎ。やっぱり九州は甘いなぁ。このお店、Jリーグのサガン鳥栖のスポンサーとのこと。



ここらへんの子供は、わしらのような見ず知らずのおっさんに挨拶をしてくれる。礼儀正しいよい子が多い。
やっぱり教育が大事だ。神埼市四か条の誓いがあり、1五恩返しをします。2礼儀を重んじます。3きまりを守ります。
4すべてものに思いやりの心で接します。とのこと。神崎宿と佐賀宿の間の宿である境原宿まで来た。両方の宿から
1里半の距離。なお、明治に入ってからの佐賀の乱(江藤新平らをリーダーとして佐賀で起こった、明治政府に対する
士族反乱)で境原地区は全焼し、当時の町並みは失われた。





これは珍しい。鳥居が3つもある若宮神社。



前方の家の赤い印のところに郡境石がある。「東:神崎郡、西:佐嘉郡」と書いてある。



あの橋を渡ったところがいよいよ佐賀宿の入り口のようです。





牛嶋構口という。当時街道を通行する旅人は必ずここにあった番所を通らねばならなかった。



佐賀宿に入ると長崎街道であることがわかるように舗装や側溝蓋に意匠を凝らしている。そしてなぜか、えびす像が多い。



佐賀は地味だけどなんとも味わい深そうな街である。思案橋を渡るといよいよ歴史的な町家街に入る。



佐賀市内で最古といわれる町屋建造物である南里邸。右はたたみヱビス、片足を垂らして座る半跏スタイルではなく、
両足を曲げて座る安座スタイルで、畳屋さんをお守りする恵比須さんである。江戸時代に恵比須信仰が盛んであった。



左:旧久富家住宅は履物商の建物(大正時代)で今ではハンドメイドのアクセサリーのお店などが入っている。
右:旧佐賀藩士を頭取に、佐賀郡の主な米穀商を株主に設立された(株)三省銀行の建物。米穀思惑売買のいわゆる
投資で資金の回収ができなくなり、倒産した。



街道筋は佐賀城や武家地よりも外側に位置する町人地の中を通過している。ここ柳町、蓮池町は城下屈指の商業地であった。
右は古賀銀行を設立した古賀善平の住宅である旧古賀家。



旧古賀家は明治17年に建てられた。大隈重信も佐賀に帰郷したときはここによく滞在していたという。



となりが旧古賀銀行本店。すばらしいホールになっている。グランドピアノも2台置いてある。
こんなところでピアノを弾けたらいいだろうなぁ。



一応、歴史民族館という位置づけ。カフェもあり、上質な時間を過ごせる大人の空間である。



呉服町に佐賀宿本陣跡があったが、残念ながらここはマンションの敷地になっていて跡形もない。



流行りのカフェもあって若者も集まる落ち着いたこじんまりとした街であった。さて丸ボウロを買いに北島へ行く。



佐賀の名物は丸ボウロで、北島という店が元祖ともいわれる。お店は老舗のわりにはモダンな洋菓子店のよう。
日本に伝来した南蛮菓子の大半がポルトガルを発祥としている事が有力となっており、それらの菓子の材料に
必要となる砂糖は大航海時代のヨーロッパにおいても非常に高価なものだった事から砂糖を取り扱えるのは修道院か
薬局が主であった。したがって、日本におけるキリスト教布教活動において南蛮菓子が宗教的な重要な意味、
あるいは船員達の健康を維持する為の長期的な航海において丸ぼうろも重要な食料として搭載された事も考えられ、
他の菓子や食文化と同様に丸ぼうろが日本に伝来したと考えられる(ウイキペディアより)





左は刀匠初代肥前国忠吉の墓がこのお寺にある。鍋島藩の主導の元、輸出産業として鍋島焼きと共に江戸時代
には肥前刀は新刀の半分近くを占めた。右は鉄の精錬に使われた反射炉、石炭などを燃料として火炎を炉内に噴射し,
炉の天井からの反射熱で鉄などを加熱し溶錬する炉。鍋島藩はこれで戊辰戦争にも使われたアームストロング砲
を造っていたわけだ。明治維新は薩長土肥が中心になったが、肥が当時の科学技術の先端を行っていたといわれる。



左は長崎街道に江戸中期以降に設けられたという旧城下町の道標である。右は城下最古の薬局といわれる。



佐賀城下西の出入り口にあたる橋。昔は舟が出入りしていたので橋げたを高くしていたので高橋と呼ばれる。



街道は国道207号線となる。俊寛僧都の墓」と刻んだ碑がみえる。国道から50m北に入ると法勝寺という僧堂がある。
開山は俊寛、もともとは京都の法勝寺をまねた美しい大伽藍で、あまたの法塔が建ち並び豪華な寺院であったが、
数度の兵火で焼失し、いまでは一部分だけが残っている。俊寛は平家討伐の謀議に加担したのがばれて薩摩の
喜界島に流刑となった。3人が流刑となったが、うち俊寛をのぞく2人が翌年に赦免されたが、俊寛はこの2人に
連れられここ佐賀の法勝寺にとどまり、ここで没したという。俊寛の墓は九州各地にあるらしい。



嘉瀬川にさしかかる。左はトイレ。ここは気球の聖地、世界大会もここで行われている。
なんと大会期間中は、JRの臨時駅「さがバルーン駅」が開設される。





久保田宿というのは間の宿なのか、バス停やJR駅にはその名があったが。以下「佐賀の歴史・文化のお宝帳」のHPより。
戦国時代に繁栄した宿場町だったが、民家・寺院・神社などたびたび兵火にかかり、その面影は失われている。
長崎街道沿いということで、久保田宿には砂糖菓子等を製造する商家が数軒あった。



羊羹が名物な小城市に入る。街道は国道からそれる。



牛津宿に入った。近くの芦刈海岸はムツゴロウを見学できるという看板があったが。ということは有明海は近い。



正満寺は脇本陣だったところ。1826年にシーボルトが長崎から江戸に上る際にここで昼食をとったらしい。



上使屋跡(本陣跡)。経営は小城藩が当たっていた。



街道は牛津駅の北側へ。駅舎は赤レンガ倉庫風になっている。



牛津川を渡る。有明粘土層と呼ばれる軟弱な泥層が見える。稲作や野菜の栽培に適しているという。





長崎まで97キロ。



江北町に入る。今日の目的地近くまで来た。



19時10分ごろ、肥前山口駅に到着。日没終了。電車で佐賀駅まで戻る。



左が、ムツゴロウの蒲焼、そのまま食べることができるが骨々しており、残りの人生で食べることはなさそう。



宿は駅前の東横イン、カチカチという音が気になる掛け時計は秒針がなくなって音がしなくなった。明日の朝は早い。



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