9 福山駅から三原駅まで
9 福山駅から三原駅まで





2018年3月17日(土)、2週連続の街道歩きである。こだま指定席切符なら2人以上で、新神戸−福山間が
正規料金7010円のところ、4700円なのです。前回は余裕で取れたが、最後の2枚であった。



今朝もセブンイレブンのお世話になった。さすがに春休みだけあって、ほぼ満席であった。



福山駅到着。鞆の浦では5月3日から27日まで観光鯛網が毎日開催されるとのことです。鯛網は380年の歴史が
あり、観光鯛網も大正12年に初めて行われ、今年で89回目になる。福山市無形民俗文化財。



福山城は徳川家康の従兄弟である水野勝成によって1622年に築城。福山藩は石高10万石だが城の規模は30万石
に相当。20数基に及ぶ櫓があったが、1873年(明治6年)に廃城し、ほとんどの櫓が取り壊され、さらに
昭和20年の戦災で天守閣が焼失。幸いにも築城当時に伏見城から移築した伏見櫓・筋鉄御門(左写真)は残った。



タクシーで前回、ほぼ終えたところに行き、午前9時10分より歩きはじめる。





左は出発地点の山手町の一里塚です。右は津之郷町にある俄山弘法大師への入口看板。弘法大師が岩を打ち砕いて
湧き出したという名水があり、水汲み場と湯治用の風呂場があり、また2000円で宿泊できるそうです。



備後国水越駅(飛脚問屋)跡。宝暦2年(1752年)江戸から備後に至る定期飛脚便が開かれた。
1913年(大正2年)ここ水越に信号所が設けられ、これを機に停車場設置を強く要請、水越駅は大正5年に
営業を開始し、大正7年備後赤坂駅に改称された。




燈籠には金毘羅大権現と書いてあった。



この辺りが備後赤坂駅。





国道2号線に合流し、山陽本線松永駅近くまで来た。



今津町へ向かって旧道に入る。




11時30分、今津宿本陣に到着。豊臣秀吉の全国統一が実現し、文禄・慶長の役にあたり、京都大坂から
肥前名護屋に至る街道が整備された。慶長7年(1602年)には今津宿が設けられ、神辺・尾道間の宿場町
として戸数300以上、商家軒を連ねて賑わったと伝えられている。この本陣は代々庄屋職を勤めた河本家
により世襲され、現在でも表門、塀、石垣などに当時の面影を残している。



ついに尾道市に入りました。お昼は尾道ラーメンを食べたいなぁ。



運よく、「いっぽん」というお店があったので入った。注文後、3、4分で出てきた。味も美味しい。
ここは地元の人々で賑わっているみたいだから、間違いない。我々がお店を出たときには行列が出来ていた。



高須一里塚跡は、この看板のみ。



地蔵を集めたお堂の横を通って、2号線バイパスの西瀬戸尾道ICの高架下を廻り込む。
トラックステーションが今ではコンビニに取って替わっている。かつては風呂もあったのだが。



池のそばを通って、バイパスの北側に出ると、昔のままの坂道になった。



春ということで、私ははっと、木へんに春と書いて、なるほどと思い、そしてその椿の咲く坂道を下ると・・・




そこは備後と芸州(安芸)の国境であった。振り返ると(東側を見ると)、福山領となっていた。
ここは防地峠。国境ということで、人と物の動きをここでチェックするための番所(藩が設けた小型の関所。今でいう
交番)が置かれた。右下の写真は福山藩の番所だった建物。大名行列も、お伊勢参りや、地方巡業の芝居や相撲、
行商人や、一人旅、二人旅。早馬も、飛脚も、様々なの旅人や荷動きを見張っていた。明治維新で国境は無くなり、
番所の建物もどんどん姿を消してしまって、いまや全国で3棟しか残っていない。しかも現地にあって、街道を
見下ろせるそのままの条件で残されているのはここ防地峠の番所のみ。
幕末、この峠で、尊王討幕の急先鋒の長州藩と徳川親藩の福山藩の武士たちが、武器を構えて睨み合い、一触即発の
危機があったとのこと。明治の廃藩置県があって、芸州藩と福山藩が併合されて今の広島県になった。



この峠から一気に南へ下ることになる。向こうに見えるのは尾道の街のようだ。






あっという間に、JR山陽本線、2号線まで辿りつき、2号線の一本南の旧道(商店街)を西へ進む。



相方はよく尾道宿の本陣跡をよく探したものだ。商店街南側にあったポールには「小川町・旧本陣」と書かれていた。
豪商小川氏(笠岡屋)の邸宅があったところで、海岸まで延びていた。次の薬師通りが出雲街道の起点となっていた。
右はホワイトハムスター1匹が千円。可愛いなぁ。



左は尾道ラーメンの元祖・朱華園である。昔、食べたことがあるが、確かに美味い。



右の写真は青春の一ページのような感じだ。僕の学生時代にはこのようなシーンは無かった。




尾道の商店街がほんまにいいね。何がいいか、まず昭和の香りが実に落ち着くのである。左下は人気の「パン屋航路」



林芙美子は生まれは下関、旅商いの両親についてあちこちを転々とする。13歳のとき、尾道市で小学〜高校時代を過ごす。
私はごく最近、『浮雲』を読んだ。戦時中にベトナムへ事務員として赴任し、職場の男性との愛の遍歴の話は当時としても
かなりとんでる女性の話だと思う。『放浪記』は日記調なので、途中で挫折。1931年11月、朝鮮・シベリヤ経由でパリへ
一人旅した『下駄で歩いた巴里』は、まるで現代の女性以上に冒険心があるのではないかと思った。
碑には「海が見えた、海が見える、5年ぶりに見る尾道の海はなつかしい。」放浪記より。と書いてあった。




商店街を出て、線路の北側の旧道を歩く。造り酒屋や懐かしい銭湯などが並ぶ。



坂の上っていくのだが、こんな細い階段も旧山陽道なのです。



門冠り(かぶりと読む)の松(正門の右または左に植えて、枝葉の一部が差し枝風に門扉の上に伸びるようにする。)
というのはこれまで、たくさん見てきたが、この屋敷のものはもの凄かった。



どえらい猫だ。道路の真ん中で昼寝だ。文句あるか、この野郎。



2号線(尾道)バイパスを北へ越えるところ。



三原市に入り、大人峠の一里塚跡があった。踏切を南へ横断すると、国道2号線。



国道2号線沿いにこのような厳島神社の燈籠と碑があるというのはやっぱり旧街道だったという証拠である。





しまなみ海道が見える。旧道は無くなり、2号線の片側歩道を歩く。



バイパスもまだ途中までしか出来ていないから渋滞は慢性的のようである。



ようやく糸崎の集落に来たようだ。陸橋を上って、線路の北側へ。



信じられないが、この陸橋は車も通行できるようだ。



尾道駅の次が糸崎駅であり、その次が三原駅、ただ尾道−糸崎間があまりにも離れていて9.1キロ。糸崎ー三原間が
2.4キロ。ウイキペディアには糸崎駅について以下のことが書かれていた。
この駅は1892年(明治25年)の7月に山陽鉄道の尾道駅から当駅までの延伸に伴い山陽鉄道の終着駅である三原駅
として開業した。当初は終着駅であり、開業当初は三原の町に一番近かった。開業から2年後の1894年(明治27年)
6月には山陽鉄道が当駅から広島駅までを開通させ、三原の中心街により近い位置に三原駅ができたため当駅は
糸崎駅(いとざきえき)に改称した。糸崎駅南側にはJR貨物のコンテナ集配基地がある。
なんと、播州赤穂行きの列車が出ているではないか! 結構、長い距離を走る列車もあるものだ。



三原の銘菓である。江戸時代になり、三原は浅野家の城下町として発展し、広島藩三原浅野家の禄高が三万石でした。



また山陽本線の南へ渡っていくと、昭和の街並みが現れた。



セドリックスペシャル6 私が生まれた1965年に登場した欧州風のデザイン風の2代目セドリック(130型)。
この車は民家の駐車場スペースに放置されていて、目ん玉が飛び出しているが、私の目ん玉も飛び出してしまった。
児童小説『小公子』の主人公セドリック・エロルにちなんで、車名が付けられた。イギリスの男性の名前。



酔心 山根本店 創業は1860年。”辛口にして甘露”が売りの広島の銘酒。



三原宿の本陣です。本陣であったとの説明書きは一切ない。



夕方5時37分、ついに三原城址=三原駅に到着。何と城の石垣の上に駅が乗っている。右は明治時代の写真。



三原は平地が少なく、この城址に駅を置く以外方法がなかったそうです。



城址に行くには、駅構内からのアクセスしかないそうだ。



三原城は瀬戸内海の水軍を掌握していた小早川隆景が1567年、沼田川河口に浮かぶ島とつないで築かれたと伝えら
れている。明治維新後には城の建物・樹木が競売に付され,その後、鉄道が本丸を貫き、明治27年に三原駅が開業した。



城は海に向かって舟入を開き、満潮時には海に浮かんでいるように見えることから「浮城」と呼ばれた。



この踊りは「やっさ踊り」という。源頼朝の重臣 土肥実平・小早川遠平父子は追捕使としてこの地に西下して以来
400年にわたり小早川氏の沼田川流域事業の基を作った。1567年、第17代小早川隆景は三原湾に浮かぶ島々
を連ねて名城三原城を築いた。この城の落城の祝い酒に酔った人々が老若男女問わず「ヤッサヤッサ」と踊り狂った
ことから「やっさ踊り」というようになった。歌詞は即興で踊りは遊行上人のひろめた踊り念仏の流れを素朴に
継承しているが時代とともに地唄はやり唄などの影響を受け、踊りの身なりも変化して三味線、かね太鼓、笛などの
リズムに乗った自由奔放な踊りとなり、宴の席や精霊供養のために踊りつがれて現在に至っている。



今夜の宿は三原国際ホテル。確か1泊6,000円くらいだったかな。昭和の古い感じがするホテルでした。




木枯らしが吹く寒い夜でした。三原の名物はタコ。刺身、天ぷら、コロッケ、酢の物など、お酒はもちろん、
辛口にして甘露の三原の酔心。それにしても三原の街は城といい、タコが名物といい、明石によく似ているなぁ。
しかし新幹線が停まる街としては福山の方が断然大きく、三原は本当に小さく、寂れた感じは否めなかった。



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