7 岡山駅から矢掛宿まで
7 岡山駅から矢掛宿まで





2018年3月10日(土)、昨年の11月以来の久しぶりの旧山陽道歩きの再開である。前回は岡山駅まで
歩いたので、もう時間のかかる在来線での選択肢はなく、今後は山陽新幹線で行くことになる。
駅から外に出てみると、新神戸駅というのは生田川を跨いで建てられているのがよくわかった。



こだまの始発電車に乗る。



駅構内のセブンイレブンでサンドイッチが朝食。8時25分に岡山駅に到着した。



奉還町商店街からスタート。
646年1月の大化の改新の詔による班田収授法を行うため、農地を碁盤の目のように区画する条里制が整備された。
この奉還町商店街通りは、この時に整備された条理の条の中でも、特に基準になった線と考えられている。
明治4年の廃藩置県の後、一部の氏族が家禄奉還金を元手に、旧山陽道沿いに商店街を形成したのが始まり。



岡山市民の大衆パン屋さんである木村屋。バナナクリームロールが人気らしい。ロールパンシリーズは種類が多い。
創業者はあんパンで有名な銀座の木村屋で修業した人なんだそうだ。



今年の冬は寒かったなぁ。今朝も気温は3度ほどだったので、とても寒い。日差しは眩しい春の陽光なんだけど。



この辺りは備前三門駅の近くである。古い民家やお寺などが多い。




久しぶりの街道歩きで、途中、道を誤ったが。道中、芭蕉の句があった。「八九間空で雨ふる柳かな」意味わからんなぁ。
これは、こういうことらしい。「春の雨が静かに降ってようやく晴れてきたころ、近くの横幅8〜9間もある大きな柳を
見に行ったところ、清らかな春の光の中に、雨のしずくがいまだに柳から滴り落ちていた。」



街道は国道180号線になり、新見・総社方面に向かう。





さて、吉備津神社の看板が出てきたので、ちょっと寄ってみます。



これ、日本一の規模の燈籠と案内人が言ってました。屋根の部分で畳8畳分あるそうです。



賽銭箱の前方では、結婚式の真っ最中でした。実は吉備津神社に行ったつもりでしたが、ここは吉備津彦神社でした。
ほんまに紛らわしい。この吉備津彦神社は、大化の改新を経て吉備国が、備前・備中・備後に分割されたのち、備前国一宮
として崇敬された。これより西の吉備津神社とも、当地を治めたとされる大吉備津彦命を主祭神に祀っている。



神社のそばを走っているのは、岡山駅から総社駅までを結ぶ吉備線である。愛称が桃太郎線という。



吉備線を北へ横断し、再び国道180号線に合流した。



しばらく歩くと、備前国と備中国の国境の石碑があった。



石碑を過ぎたあと、旧山陽道は側道の方へ行く。右の写真は真金(まがね)一里塚である。真金村にあったことから
その名称になっている。岡山城からは万成に次いで2番目にあたり、旧山陽道を挟んで北塚に松、南塚に榎木が
植えられていた。現在のものは後世のものであるが、当時の雰囲気が残された貴重な一里塚である。



左の鳥居が、吉備津神社に向かう参道である。時間が無いので割愛した。



吉備郡誌による板倉宿、備前境宿入により西板倉迄 489間半 但し丁に直し、8丁と9間半。家数190軒。
板倉の地名については源平合戦で地元の豪族が木曽義仲の軍勢を迎え撃って討ち死にした戦いの場として知られ、
江戸時代になると備中最初の宿場町として知られるようになった。ここは松山往来の起点(真金十字路)であり、
南に行けば庭瀬陣屋町があるという交通の要所であったことから、繁栄したという。



上の地図は江戸時代の板倉宿であるが、北側を見ると「水攻秀吉陣所」、「秀吉水攻め使用の竹藪」というのが
見られることから、当地はあの備中高松城の近くにあることがわかる。調べてみると、吉備線の吉備津駅から一駅で
備中高松駅があり、そこから徒歩で城址に行くことができる。ぜひ行きたかったが、残念ながら時間がない。



倉敷というだけあって、ここらへんの蔵には特徴がある。いったん、倉敷市に入る。



道路標識には、高松の地名が見え、そして板倉宿の西には、笹ケ瀬川が流れている。



大きな道標があった。南へは金毘羅、くらしき道・・・、西へは川辺、やかげ、そうじゃ道、大正4年と書いてあった。



時間は12時半、そろそろ昼食をということであるが、これまでレストランは全くなかったことから、
朝食に引き続き、仕方なくセブンイレブンのお世話になった。



右の福祉施設の庭先を借りて、親子丼をいただいたわけだが、あまり美味しくない。食べていたらここの施設長と
おぼしき方から、ここらへんの見どころを教わった。しばらく行くと、古墳があったり、造り酒屋があるとか・・・



左が造山(つくりやま)古墳である。岡山県では最大であり、全国では第4位の規模の巨大古墳で、5世紀前半の
築造らしく、墳丘に立ち入りできる古墳としては全国最大の規模だという。(前方後円墳)




ここらへんは古い町並み、そしてまた造山古墳があった。説明書きには、全長約360mの前方後円墳で、大阪の
大山(伝仁徳陵)古墳が486m、誉田御廟山(伝応神陵)が420m、上石津ミサンザイ(伝履中陵)古墳が
365mに次ぐ、全国第4位の規模だとのこと。その規模から畿内政権と肩を並べるほどの力を持っていた
吉備の大王の墓と想定されている。古墳は自然丘陵を削り、あるいは盛り土して三段に築造されている。



街道沿いにそば屋(岡山名物ぼっこう蕎麦水仙亭)があった。非常に残念。下調べをしていなかったのが悔やまれる。



平山郁夫画伯は平成元年から度々、吉備路を訪れ、この付近から備中国分寺を取材。右が平山画伯の「吉備路緑映」。



またもや飲食店が街道沿いに。まほろば珈琲店。



さて古い街並みとなり、造り酒屋があった。明治38年(1905年)創業の三宅酒造。代表銘柄は「粋府」



入ってみると、酒かすをご馳走してくれました。胃腸にとても良い菌が満載だそうです。



ここは、間の宿である。その名も「宿」でした。北には備中国分寺、南には寺山古墳があり、吉備路の中心に位置する。



右は明治時代初期の建物だと書いてあった。



この先、御崎神社の境内に吉備考古館があり、土器などが展示されているそうだ。右下は山手村の一里塚。
昭和30年代まで大きな松の木があったが、枯れてしまったそうだ。





古い日本家屋があるかと思えば、南部アメリカにあるようなコロニアル様式の白亜の建物もあった。



さて旧街道は、眺望が広がったところで大きく左に曲がる。



西宮から歩いてきて、はじめて広島風お好み焼きのお店を見かけた。



伯備線の線路を越え、高梁川に架かる川辺橋を渡る。



川を渡ったところに川辺一里塚があった。江戸日本橋より180里(約707キロ)。もともとこの一里塚は
川辺の渡し(高梁川右岸)にあったが、明治40年から始まった河川の大改修で、現在地に移転した。



こうはっきりした石碑があると、大変ありがたい。自治体によって取り組みが違う。脇本陣跡がバス停になっている。



ここらへんの歩道に、「金田一耕助ミステリー遊歩道」の道標があった。横溝正史の小説『本陣殺人事件』はここ
倉敷市真備街を舞台にした作品であり、金田一耕助の故郷でもあるそうです。そういや『八つ墓村』も岡山県が舞台だった。



国道486号線の歩道を歩く。西日が眩しい。





ふと北側を見やると、こんな田舎に高架鉄道が走っているではないかと驚いた。井原鉄道!



歩けども歩けども、なかなか矢掛宿に着かなかったが、午後6時過ぎ、ようやく看板が現れた。
浅口市鴨方町と矢掛町にまたがっている阿部山にある、「安倍晴明ゆかりの地」の看板もあった。
阿部山の麓の真備町は陰陽道の元祖ともいうべき吉備真備に縁の深い土地でもあるらしい。阿部山で
安倍晴明は天体観測をしていた!? そういや手前に天文観測所のようなものがあった。(下の写真)



阿部山の隣の竹林寺山の国立天文台。右は望遠撮影。



ようやく矢掛の町の灯りが見えてきた。疲れ切っているので、希望の光に見える。



やっと矢掛宿に着いた。午後6時35分。



右は矢掛町にある3か所の一里塚のうち、矢掛宿の東端にある中央の一里塚である。道の南北とも黒松で、
北側の松は明治16年頃、積雪で倒れ、南側は昭和16年にバス路線工事のため伐採されたという。



矢掛唯一の宿である「矢掛屋INN&SUITES」に午後6時50分に到着。本日の歩行距離41キロ。



古民家をリノベーションした素敵な宿でした。一人素泊まり約8000円。



左は館内の食事処での夕食、右は館内に展示していた江戸時代の庶民の質素な食事、一汁一菜。



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