播磨街道 深谷〜有馬温泉
播磨街道 深谷〜有馬温泉

2020年5月23日(土)、前回からのつづき。



このページを編集していて、ここ八多の深谷で播磨街道と湯の山街道が分岐することに気が付いたのであった。
これまで湯の山街道北ルートが播磨街道になるものだと思っていた。



大きな石碑の方は青山先生の碑。元三田九鬼藩の武士であった青山享太郎氏。
深谷寺にあった正道小学校の先生で人望が厚く、のちハ多尋常小学校の校長となる。明治32年の石碑。
右:京・大坂方面である播磨街道へ。



今昔マップより掲載、黄色の点線の街道は、明治42年当時は無かったのである。



今日、一番の旧街道の風景でした。さわやかな風が吹き、しあわせを感じる一瞬でした。



わずかであるが、県道38号の喧騒から逃れたが、ふたたび38号に合流する。



八多のJAを過ぎ、中古車展示場のところで右に折れて、県道38号線から離れる。





ようやく県道38号から離れ、八多町吉尾方面へ



六甲北道路をくぐり、川沿いをしばらく歩く。



吉尾の鬱蒼とした山の中へ。



手入れされた竹林のようだけど、私有地なのだろうか。



県道82号線(西宮大沢線)に出た。



左:旧街道は赤い矢印方向だけど、まっすぐ東方向へ。82号線道路工事により切通しとなっているのがわかる。



神戸電鉄の踏切を渡って、神戸三田線を横断して、有野中町へ。



右の大きな建物は有馬醸造であった。右、奥に道標があった。



右道場川原、すぐ三田きよ水、すぐ三木あふこ(淡河)、すぐ中山大坂 安政5年(1855年)の道標のようです。
右:崖を下って河原に出る。



有野川に架かる田尾寺橋を渡って、分岐を左へ。



山の中へ。



鬱蒼とした山道を抜けるとそこは、西宮市で舗装道になっていた。





播磨街道の表示がありました。西宮の阪神流通団地を抜けたところ。



左の青い囲み:駅前橋。右の青い斜線箇所:旧国鉄の有馬線の有馬口駅だったところ。
ここ山口町は昔は竹細工の里で知られた所、そういや近くの有馬温泉も竹細工がおみやげで売っていたような。



この有馬温泉に続く南北の道は、大正4年から昭和18年まで三田と有馬を結ぶ国鉄有馬線が走っていた。
右は、青い線が旧有馬線のルート。赤い線は歩いたところ。
昭和3年に有馬温泉駅まで神戸電鉄有馬線が開通すると、国鉄有馬駅は温泉から離れた所にあったので不利であった。
そして太平洋戦争中の昭和18年に不要不急線として休止された。そのまま廃線となり線路が撤去された。
三田駅 (0.0) - 塩田駅 (2.3) - 新道場駅 (4.4) - 有馬口駅 (8.1) - 有馬駅 (12.2) 計5駅。



大通りから右に入ると、そこ(西宮市上山口町)はハイソなお屋敷が並ぶ通りであった。



左の写真:右ありま・なだ/左ふな坂・西ノ宮の道標 右:有馬温泉へは有馬川の東側の小道を歩く。







有馬温泉に入る直前で、西宮市から神戸市に入ったが、これまで続いていた歩道も無くなった。
有馬への道は、今度は有馬川沿いのプロムナードを歩く。



左:太閤橋 右:杖捨橋 



昔の旅人は杖をついて有馬温泉に辿りついたが、温泉での療養を終えて。帰路に着くときにはすっかり
元気を取り戻して、ここに杖を捨てたとのことだが。



左:杖捨橋のたもとにあった道標、杖捨橋からの帰路は宝塚方面、宝塚からは小浜宿そして池田や京都、大坂につながる。
有馬温泉中心地へ戻ってきたが・・・



まだどの旅館も再開しておらず、ひっそりとしている。今回で有馬温泉にまつわる街道シリーズは終わりのはずだった。
湯の山街道北ルートが播磨街道になって、西宮市山口町を南下して有馬温泉に辿りつくものとばっかり思いこんでいたのが、
このホームページ作成していたときに、それが間違いであったことに気がついた。実は湯の山街道北ルートは、八多の深谷で、
東に向かう播磨街道と分岐して、南に向かう道がそうであったということがわかり、また次回、探索することにした。






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