1 高麗橋から守口まで
1 高麗橋から守口まで





2018年11月4日(日)午後4時に西宮から大阪・高麗橋までの中国街道を歩き終え、まだ日没まで時間があるので
京橋まで京街道を歩くことにする。





江戸時代、ここ八軒家には三十石舟をはじめ野崎詣・金毘羅参などのさまざまな舟が発着し、淀川流域の船着き場には京街道
でもあった浜通から川岸にかけて、石の階段「雁木」が築かれ、物資の積み下ろしや人の乗り降りに便利な工夫がされていた。
三十石舟は八軒家と京・伏見の間、11里余り(約45キロ)を上り1日、下り半日で運航し、江戸時代を通して貨客輸送の
中心を占めた。明治3年(1870年)に蒸気船が就航すると三十石舟は衰退し、明治43年(1910年)に京阪電鉄が天満橋ー五条
間に開通して、八軒家は淀川の貨客輸送ターミナルの役割を終えた。



西日を浴びる大阪城が見える。



京橋駅へ行くアクセスがややこしく迷ってしまったが、午後5時、京阪(JR)京橋駅で日没終了。



京橋といえば、グランシャトーであるが、座り席もある立ち飲み屋で一杯飲んで帰ることにする。



京橋は飲み屋激戦区なのでとにかく安くてうまいし、早い。座り席代300円取られたが、一人2000円程度で済んだ。



総合レジャービル・グランシャトーの前を通る。一生に一回は話の種に行ってみようかとも思うが・・。次回につづく。



2018年11月17日午前9時半、京橋駅を出発、いきなり左:京、右:大和の道標があった。



すぐに商店街に入る。






商店街を出て、右に行ったり、左に行ったり。



野江国道筋商店街ということは、この道路は国道1号線ということ。この商店街、昭和の生き残りです。
JR城東貨物線の高架下でもある。城東貨物線といえば、JRおおさか東線というのができるらしいが。
2019.3.16に開業し、新大阪〜奈良間を52分で結ぶとのことです。



野江駅なる駅ができるみたいだ。京阪本線とも乗り換えができるようだ。



慶応4年(1868年)、明治天皇が千数百人のお供を連れて関目の地を通り、津村別院(北御堂)に向かわれた。
その前日の行在所は守口の難宗寺を朝8時に出立、ここで小休憩した。正午には八軒家に到着し、津村別院に40日滞在。
その後、天保山で観艦式に列席、大坂城や住吉大社を巡覧し、京都へ還った。



関目の交差点のところを北東へ行く。関目というのはこの地に見張所(目で見る関所)があったことが由来らしい。






古市橋を渡る。この橋は工業用の船運を目的に昭和10年から15年にかけて大阪市が城北運河を開削したときに
架けられた橋である。



主婦の店ダイエー薬局1号店(ダイエーの前身)が1957年(昭和32年)にここ千林商店街にオープン。
千林商店街は大阪を代表する商店街の一つで、アジアからの観光客も見られた。千林商店街の道筋は野崎街道(野崎観音
に通じる街道)と呼ばれ、昔から交通の要所としてにぎわった所である。



再び国道に出て、またも右に曲がって商店街に入る。



京阪商店街という。






上り坂になっているが、これが秀吉が築かせた文禄堤なのである。




京阪・守口市駅が眼下に見えるほど高台になっている。これが淀川の洪水対策のために築かれた。



真新しい高札場(H28.12月設置)には次のような説明書きがあった。「文禄3年(1594年)に伏見城を築いた
秀吉が、京都と大阪を最短距離で結び、かつ降雨量が多い時などにも使用可能な陸路が必要となったことから、毛利輝元、
小早川隆景、吉川広家の三家に淀川の改修を命じて完成させ、堤の上に京街道を通した。築造当初の長さは27キロで
あったが、現在で残っているのはここ守口の720mだけとなっている。



提燈(ちょうちん)屋さんはもう廃業されているようだが、当時の面影が残っている。



ここが守口宿の本陣跡。1616年に東海道の宿場町となった。通常、街道の道幅は2間半(4.6m)であったが、
ここは15mもあった。というのもこの場所が枚方・大坂への人馬継立や荷物の受け渡しをする所であったから。
守口宿は明治5年(1872年)に廃止された。旅籠の数は27軒。



難宗寺(浄土真宗)は蓮如上人が1477年に守口坊として建立。この9月の台風21号でイチョウの葉が青いまま。



この難宗寺の角には道標が4つもある。「左・京」、「すぐ守口街道(奈良方面へ清滝街道に繋がる」、「御行在所」、
「御假泊所」そういや関目にあった関目神社の説明書きには、明治天皇が難宗寺に泊まったとあったなぁ。



この先、淀川河川敷を歩くので本陣前のマクドナルドで昼食を済ます。



国道1号線を横断して淀川方向へ。



この一里塚は守口の入り口であり、出口であった。この一里塚がいつ設けられたか明らかではないが、
おそらく大坂夏の陣の翌年、1616年に宿場町になってからのことであろう。(石碑より)



阪神高速守口線の下をくぐる。



つい、猫を撮ってしまう。すぐに隠れた。




前方に淀川の堤防への入り口が見えてきた。次につづく。



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