9 彼杵駅から岩松駅まで
9 彼杵駅から岩松駅まで





2019年10月26日(土)、久しぶりの街道歩き、これまで東海道、西国街道、長崎街道を歩いてきたわけだが、なんと航空機で目的地
に向かうのは初めてである。8時30分ごろ、神戸空港に到着、これまで何度か神戸空港を利用したが、このような行列は初めて。
なんと天皇即位の礼で、世界から賓客が訪れる関係で空港では特別警戒のため、荷物検査が念入りに行われていたからであった。



9時15分神戸空港発→10時25分長崎空港着。なんて楽なんやろう。ところが、到着後、同行のI君が「財布がない」とのこと、
飛行機の座席に財布がズボンのポケットから落ちたに違いないので、スカイマークのカウンターに行って相談すると、トランシーバー
で連絡を取ってくださり、「あった。」とのこと。係員の方が走って持ってきてくれた。さすが日本、外国では絶望的だろう。
スカイマークさんの迅速な行動のおかげで11時過ぎの西肥バスに乗ることができた。しかし彼杵本町で降りるのだが、降車ボタンを
押さないとバスは停留所を通過してしまう。あわてて、「降ります」と声を掛けると、停留所を過ぎたにもかかわらず、下してくれた。
降車ボタンは天井のみに設置されており、われわれは気が付かなかったわけである。いきなりトラブルの連続である。
前回は嬉野温泉から国道34号を縫って山を下りて右の写真の信号の所まで歩いたので、そこから午前11時半ごろから歩き始める。





左が彼杵神社(御茶屋=本陣)、右が脇本陣跡。



右は元禄時代の彼杵港、五島近海で獲れた鯨もここで水揚げされ、九州各地に運ばれ、大いに賑わったという。



彼杵に若松屋という旅館がある。結構、新しい感じの建物、ネットでの評判も上々でした。料理がおいしいとのことです。
しかしここに泊まるというのもどういうお客さんなのかな。釣り客ぐらいかな、それとも長崎街道を歩く人か?



1597年(慶長2年)2月5日、豊臣秀吉のキリシタン弾圧で長崎西坂の十字架で殉教した26聖人は、その前日の夕刻、
ここ彼杵浦より乗船、対岸の時津浦へ向かった。26人の長はフランシスコ会司祭ペドロ・バウチスタであった。



歴史は秀吉の残忍さを伝えているが、本当はキリスト教の布教はその国を支配するために行われたものであり、フィリピンは
スペインのフェリペ国王の名前が由来になった被征服国、秀吉は、そこを見据えていたのでこういった弾圧はやむを得なかったと
私は思う。江戸時代初頭、キリスト教の弾圧が強化され、大村藩内仏教に改宗が進められた。



昭和15年ぐらいの彼杵の写真。彼杵茶は長崎県内の約60%の荒茶生産が行われている。南北朝以前からあったという。



歴史民俗資料館を見学して、再び街道を歩くがまもなく昼時である。



国道沿いに行って、タイハクという鯛の釜めしが売りのお店に入る。くじらやうなぎ、とんかつなど何でも有りのお店でした。





国道34号線を縫うように歩く。



間の宿である千綿宿に入りました。右の写真の左側の家屋は、土肥家。江戸時代から回船業を営み、日本茶輸出の先駆者である
大浦慶(茶の輸出の創始者で、イギリス商人オルトと組んで、巨万の富を築き、坂本龍馬や大隈重信らに資金を提供した。)
の扱うお茶や農産物の出荷をしていたという。



ビニールハウスの溝にいた猫、写真を撮ったら、腹を空かせているのかずっと追いかけてきた、切なかったなぁ。



長崎街道は今度は大村線を横切る。右は東彼杵町の米倉庫をリノベーションした「Sorriso riso」。3店舗が入っている。 →Sorriso riso



彼杵茶の自販機があった。即買いで、めちゃめちゃ美味しいお茶でした。







長崎街道 平原一里塚跡。再び、34号線に戻る。アメリカ西部にあるような給水塔のあるラブホテル。



ここは鉄道の撮影スポットのようです。今か今かと列車が来るのを待っている撮り鉄たち。大村市に入った。



わたしも撮り鉄だったりして。海岸沿いを走る列車は本当に絵になる風景です。



カモメかと思ったら、これはウミネコ。くちばしはともに黄色だが、嘴の先端が赤と黒の模様があるのがウミネコ。
ウミネコはカモメ科の鳥で、猫に似た声で鳴くとのことですが、鳴き声は聞こえず、集団で黙って海を眺めていました。



左は佐屋の御前という道祖神。道祖神とは村に悪い霊が入ってくるのを防ぐために村境や峠に祀られたもので、この前で
往来する人が旅の安全を願掛けしていました。またこの佐屋の御前は「性の神様」と崇められていたそうです。
ここを訪れたことで、わたしも、この先何か良いことがあるのか楽しみです。



松の木の残る並木道を過ぎると、松原宿に入ったようです。右は松原一里塚跡。





松原宿は諸大名の通行する時の小休憩処にあてられ、写真の旧松屋旅館も江戸時代には小休憩処として利用され、
その後昭和40年(わたしの生まれた年)まで旅館として営業されていたそうです。



左は伊東家屋敷。1190年源頼朝の重臣工藤祐経が全国33か所の領地をもらったうちの一つがこの松原村であり
現地の管理者として下向したのが伊東家だそうです。右は江戸時代後期の相撲取りの墓。「大荒鷲岩」「秀の川」
などのしこ名が墓石に刻まれてました。



左は松原小学校の運動場ですが江戸時代は大庄屋の屋敷があったそうです。戦国時代は大村純忠がここを支配していたが、
キリスト教に入信したことで、それに反発して内乱が起こったそうです。右の大村名物「兵児はずし・おこし」は、大村の銘菓で
兵児葉寿司おこしといって、殿様に献上したさい、あまりの美味さに「へこ」(ふんどし)が外れたことに由来する。



なんとリンガーハットのドライブスルーがあった。街道は、国道34号の長崎空港へのアクセスロードへの交差点あたりまで来た。





左は長崎空港から近いゲストハウスBFH。1室3,500円という安さ。BOOKING.COMで室内を見ると、以前はラブホテルだった感じです。
、右はスコーコーヒーパークという飲食店、ここは寿古町(すこまち)ということからか!ここでは温室があって、コーヒーの木が
育成されており、となりのレストランではコーヒーを使ったおむすびやピラフがいただけるらしいです。



長崎新幹線の車両基地であろうか、現在建設中である。そういや2019年10月6日、台風19号で千曲川が決壊し、北陸新幹線の車両基地が
冠水で保有する車両の1/3が廃車となる。右は4代目セドリック、1975年ー79年式のようですから40年は経過している。



お墓、やっぱりキリシタンが多い。霊名もマリア、ミカエル、イザベリナ、ペドロ・・・



左は空襲から航空機を守るための格納施設である。コンクリート製で強度に優れたかまぼこ型をしている。



左:獄門所跡。江戸時代、キリスト教が禁止されていたときに603人の信者が捕まった「郡崩れ(1657年)」という事件の史跡。
大村藩の山奥に隠れキリシタンが潜んでいることをある百姓が漏らしたことで、取り調べの結果、406名が処刑された。しかも
131人の首は塩漬けにされ、見せしめのため、人通りの多かったこの長崎街道沿いのこの場所に20日間さらし首にされたという。



大村宿に入ったようです。右は脇本陣跡。



脇本陣前に、子猫がいた。やっぱり長崎は猫が多いみたいなんだが、この猫もよく鳴いていたなぁ。街道は大村の中心街の商店街を通る。



本陣の屋敷は鯨長者の深澤儀太夫が寄進したものだという。儀太夫は紀州の海で修行し鯨組を組織し肥前近海で捕鯨業を行っていた。



商店街を出て、長崎街道はこれより諫早道となる。





道に迷い、武家屋敷街を歩く。幕末、松林飯山という人は3歳で字を書き、6歳で孟子、7歳で詩経を読み、神童と呼ばれた勤皇思想
のリーダーであったが、幕末佐幕派と対立し、29歳のときにここで刺客に襲われ亡くなったということだ。





再び長崎街道に戻る。街道は大村の武家屋敷街を過ぎ、山際を通って鈴田へ向かう。右:長崎医療センターが右手にみえる。



17時50分、目的地の岩松駅に到着。なんとか薄暗いうちにたどり着けて良かった。



しばらく駅にいると、なんと豪華列車「ななつ星」が入ってきた。



この岩松駅には週に1度、土曜日の18時ごろに停車するとのことで、地元の家族連れもこれを目当てに見に来ていた。
プラットフォームで記念撮影していると、乗務員から6周年記念の飴をいただいた。



1人あたりの価格は1泊2日で15万円 - 40万円(車中泊)、3泊4日で38万円 - 95万円(車中2泊・旅館1泊)で、関東・関西など国内観光客
やアジアの富裕層の利用を見込んでいる。ツアー参加者は中学生以上に限定されている。車内の共用スペースでのドレスコードは
「スマートカジュアル」と定められ、ジーンズやサンダルは禁止である。車両製造費は7両編成で約30億円である。(ウイキペディア)



本日の宿泊地が大村なので、大村駅まで戻る。



国道34号線沿いにある「さいさき屋」。はなかご御膳1380円、豪華やのにめちゃ安!ここはほんまに大満足。



なんとこの大村港から時津行きが出ているとのこと。安田産業汽船(株)が運航していて、今日の宿は、↓



安田産業汽船(株)が経営しているヤスダオーシャンホテルでした。





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