10 岩松駅から矢上宿まで
10 岩松駅から矢上宿まで





2019年10月27日(日)、大村駅早朝5時59分始発電車に乗る。まだ暗い。



岩松駅前のファミリーマートの店内イートインで朝食を取っていたら、日が昇り明るくなった。





鈴田番所跡、庄屋跡。ここで村外の通行人の改めを行っていた。



道標によれば、ここを上がっていくようだが・・・



方向が違うような感じがするのだが、墓の合間を上がっていくしかなく・・・



そのまま進むと高速道路の上を歩くことになり・・・上の地図では高速道路の下のような気もして。



よくわからないうちに鈴田の集落へ、長崎街道と合流する。ここの一里塚では、最後の松の木が松枯れで昭和21年頃に伐採。
旅人の休憩処はもちろん、旅の旅程の目安にしたり、駕籠の料金の支払いにも役立てたとのことです。


鈴田の集落を過ぎて、JRを越えていよいよ山越えへ。



この大神宮の前に安次郎という者の家があり、諸大名や幕府の役人が小休憩に利用したという。古松宿休憩処跡。





いよいよ山に登っていくが、草が繁茂しており、あまり整備されていないようだ。




このあたりまでは、長崎街道の道標があったのだが。右は秀吉が九州を平定した折、天草の志岐氏が謀反を起こす、それに
対し、大村喜前の使者の渡辺伝弥久が諫めにいったものの、その使命を果たせないどころが、ここで大雪に遭い、
馬や家来ともども亡くなってしまった。



なんか、道標がなくなり、また柵の向こうは草が繁茂して先に進めそうになかったので、やむを得ずグーグルマップ
で舗装道を辿って今村町の方へ南下することにした。小倉からの途上、長崎街道が断絶している箇所は初めてかも。



山を下って、ようやく民家が出てきた。民家の前には番猫が。



長工醤油の工場があった。やはり甘いらしい。皿うどんにかける金蝶ソース(ウスターソース)なるものが人気だそうです。



キンモクセイが満開で、街道はその芳香が充満していた。今村橋を渡り、もうしばらく東に行くと長崎街道に合流するはず。
下の地図の黄色のラインが迂回路。





ようやく長崎街道に合流した。30分以上はロスしたかな。右は岩茶屋跡。



上の地図では赤丸のところの交差点あたり。ここが永昌追分であり、ここ諫早城下、大村、長崎の3方向への分岐点になって
いた。この追分には人馬継立所(旅行者の荷物を次の宿まで送る問屋場)があった。江戸時代、諫早は佐賀藩に属していた。



左はJR諫早駅であるが、こちらは裏口のようです。再び長崎街道に戻る。



街道は南方向となる。



昨日のセドリックに続いて、今日も懐かしいニッサンの車があった。ブルーバード4代目(1971−76年)





歩くときは片手に紙製の地図と現地とを確認し、分岐点では特に確認を怠らない。判断に迷うときはグーグルマップをみる。



JRをくぐる。諫早市内では長崎街道は10キロほどの長さ、多良道(諫早街道)という。



ここも追分(小船越追分)で、左方向は島原街道である。



左のアパートが南茶屋跡で、どこかに石碑があるのかと思ったら、アパートの名称として看板が貼り付けられていた。
街道はここで工業団地に入る。







途中、旧道に誘い込まれそうになったが、今日は2回も途中で道標が無くなり、道に迷ったのでやめることにする。



長崎自動車道をくぐって、これより山に入る。また道に迷うのか、やや不安な面持ちで右に曲がる。



上の茶屋跡の井戸。この付近、江戸時代には旅籠があった。



峠が郡境(彼杵郡と高来郡)になっている。



左は清水の祠で、干ばつでも枯れることがない。右は殿様を乗せた駕籠の休憩処(御駕籠立場跡)



左:街道は洗濯物を干している民家の庭先を通る。右:これより東佐嘉領。西が大村領。



ゼリーのたらみの本社が街道沿いにあった。たらみが、多良見という地名だったとは知らなかった。





たらみの工場を過ぎたらすぐ左に曲がる。すると古賀の藤棚があった。郷土の人形である古賀人形を作っていた
という小川家の前に藤棚があり、そこは街道の茶屋になっていて休憩処であった。



時刻は午後1時20分、旧街道では食べるところがないので国道34号線に出て、丸亀製麺で昼食。
右:古賀地区に戻り、キリシタンを撲滅した僧の正哲の功績を賞して建立された福瑞寺を過ぎて、川沿いを南下する。
1593年当時、古賀地区の住民は全員、キリシタンであったという。(ルイスフロイスの日本史による)



松井糀屋という和菓子のお店が旧街道にぽつんとあった。糀を使った饅頭がおいしそうである。





長崎自動車道をくぐって南下を続ける。



八郎川を渡ったところに、長崎大水害(昭和57年7月23日)の慰霊碑があった。碑文は以下のとおり。
「あの日長崎付近に梅雨前線が停滞し、湿舌現象により午後5時過ぎ雷を伴う強風とバケツをひっくりかえしたような
集中豪雨が襲った。東長崎地区はこの豪雨中心地域になり、7時間に500ミリという我が国観測史上未曾有の雨量を
記録した。午後8時過ぎ、山間部の各地で鉄砲水が噴出し、土石流は山肌を削り、巨岩を転がし、多くの家を一瞬に
のみこんだ。八郎川、中尾川などおびただしい流木と土石で埋め尽くされ、出た濁流は東長崎支所付近で水位250
センチに達した。国道34号線は流木、車軸、土石で埋もれ無残な光景を呈し、矢上商店街は壊滅的な打撃を受けた。
矢上地区の死者34名、家屋の全半壊163戸とかつてない大惨事となった。」
「通り魔のような豪雨で一瞬のうちに尊い生命を落とされた34名をここに刻み冥福を祈念する。」



矢上宿は長崎から数えて2番目の宿場町。鍋島藩の配下である諫早領の支配地で、長崎奉行支配の日見村と境を接して
いたので矢上宿には鍋島藩の番所があり、役人が取り締まりや警備に当たっていた。矢上宿には旅宿があり、馬や人足など
が常時用意され、造酒屋、鍛冶屋などのお店が軒を連ねていた。本陣は国道を隔てた長崎自動車学校の所にあったという。
〜つぎに続く〜






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