11 矢上宿まで長崎街道終点まで
11 矢上宿まで長崎街道終点まで





2019年10月27日(日)、時刻は午後3時半。矢上宿を過ぎ、コンビニで小休憩。コンビニはほんまにありがたい。





左:腹切坂という。坂の上に建つ領境石標は「彼杵郡之内日見領」「従是北佐嘉領」と刻まれ、天領であった日見領と
佐賀藩諫早領でった矢上村との境を示している。当時より5mほど矢上側に移設されている。



国道34号線を横断、ここを渡れば、すぐ日見宿である。





「日見宿跡」というバス停があった。



日見宿は西は長崎へ2里(約8キロ)で途中に日見峠があり、東は矢上宿まで1里という場所にあった。
日見は戦国末期は有馬領であったが、のち天領となり、その後島原藩になるなどの変遷を経て1768年
以降は長崎代官の支配地とされた。



いよいよ日見峠の上り坂にさしかかる。



結構なつづら折りである。



時刻は午後4時半、ここで道に迷うとまずいので慎重に歩を進める。



高速道路を越すと、つぎはこのような階段を上っていく。



そして次は、このような見事なつづら折り。長崎街道の難所中の難所といわれた。



日見峠は長崎街道のなかでも「西の箱根」と呼ばれた。



明治になり、日見峠の道路改修が計画され、新道の建設が行われた。これにより人力車や馬車が通行できるようになった。
当時のお金で47,000円という莫大な工費を回収するため、一人5厘、人力車2銭、馬車5銭の通行料をとっていたという。
これが有料道路の始まりといわれている。、



峠を33mも切り下げたという切通しが、最大の工事だったという。



ようやく下りになる。難所なので旅人たちは茶屋で休憩をとりながら険しい山道を越えた。茶屋は東側中腹に1軒、
峠に1軒、西側中腹に2軒あった。



左は東側(日見側)、右は西側(長崎側)。



古い感じの集落を通っていく。いよいよ長崎市街地も近い。





本河内高部水道施設(日本最初のダム式水道 1891年〈明治24年〉完成)。外国人居留地が建設された長崎では
コレラ・赤痢などの疫病の流行に悩まされたので、大金を投じて横浜、函館に次いで近代水道を建設した。
この水道施設の設計・工事長は吉村長策といって、このあと、明治26年(1896年)には神戸市水道工事長として
神戸水道布引ダム(日本最初のコンクリートダム)を完成させた。



番所というバス停。いよいよ市街地に突入。時刻は午後5時半、日没も近い。



1804から1829年ごろ、甲斐田市佐衛門によってこの地に旅人歓送迎の茶屋が開業された。幕末から明治初期が
最盛期で蛍の名所だったから、蛍茶屋と呼ばれた。



一之瀬橋は1653年に架けられた石橋で、右は幕末頃の写真。ここで旅人の見送りとお迎えが行われた。



長崎はのらネコが多いみたい。次回はのらネコの撮影に訪れようか。



長崎市電の蛍茶屋停留所。



上からネコの鳴き声が聞こえるなと思ったら、木の上にいた。右は今日のベストショット。



ゴールまであと一息、シーボルト通りという名称になっている。



午後5時55分、「長崎街道ここに始まる」の石碑のあるゴール地点に到着。暗いのでフラッシュで撮影した。



ますは市電に乗り,いったんホテルに行ってチェックインしてから、夜の街へ。




右下の鴨の炭火焼が、肉の旨味と脂が乗っていて絶品。また食べたい。



長い一日でした。今日の宿であるコンフォートインに戻る。1泊6,000円ぐらい。明日は長崎観光です。







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