12 長崎にて
12 長崎にて





2019年10月28日(月)、長崎は今日も晴れだった。右はホテルの向かいにあった長崎県庁舎(大半が移転)であるが、
ここは南蛮船来航の波止場跡であった。1582年に天正少年使節団が出航したのもここであった。
1570年に長崎港が開港され、1580年長崎の地は大村純忠によってイエズス会に寄進され、本部が置かれたという。





波止場跡のすぐ隣がカステラの文明堂総本店。重厚な店構えが歴史と伝統を物語る。創業は1900年。松翁軒は1681年、
福砂屋は1624年というからすごいなぁ。当時は炭で焼いていた。右は佐賀県鳥栖からの国道34号線(長崎街道)の終点。



右は長崎市役所。なんか神戸市役所2号館によく似ている。ちょうどラグビーワールドカップが日本で開催していた頃でした。
スコットランドが長崎市でキャンプを張っていたとのことです。



1610年長崎代官アントニオ村山等安の寄進によってサンドミンゴ教会(薩摩で追放された)が建てられたが、1614年
徳川家康のキリシタン禁制により破却された。その跡地は長崎代官末次平蔵の居宅になった。現在は桜町小学校。




長崎歴史文化博物館。ここは長崎奉行所立山役所跡ということで奉行所が再現されている。平成17年開館なので新しい。



右は大村純忠(ドン・バルトロメオ)が茂木・長崎両地を譲与した覚書である。大村の領主ドン・バルトロメオとその子は
コンパニア(イエズス会)のパードレたちに負う数々のことを顧みて長崎という所とその領内のすべての田畠を同コンパニアと
その巡察使(ヴァリニャーノ)に永久譲与し、その所有権を委ねる。同コンパニアのパードレたちはその欲するままに、
いかなる者をも同所の奉行に任命し、あるいは解任することができる。彼らが任命した者に死刑を下す権利、また同所を
よく支配し、立法の違反者を罰するために必要な支配権を与える。ただしこの船と当港に入るすべての他の船の貿易税は
余に払うべきである。・・・なお右と同様に茂木とその領内にあるすべての田畠を永久にパードレたちに与える。以上の譲与が
決して変更されず、永久に有効であるために余はこの書類を作成し、自らもわかるサンチョもこれに署名さる。
ドン・パルトロメオ(大村純忠)、ドン・サンチョ(大村喜前)
こうして、イエズス会は大村純忠を騙して日本を征服する足掛かりを作った。それを召し上げた豊臣秀吉は日本の救世主といえる。



左は朝鮮通信使が江戸を訪れた模様の絵。右は南蛮屏風である。よく見ると黒人奴隷がいることがわかる。イエズス会の宣教師
はイエスの教えに反して、日本人の人身売買も行っていたという。女性は性的奴隷、男性は兵士に海外へ連れられたという。



左は幕末にベアトが撮影した長崎港の様子、右は長崎奉行所西役所にあった長崎海軍伝習所。海軍創設と長崎警備を担った
佐賀藩を象徴的に描かれている。



オランダ商館長の江戸参府。当初は毎年の行事であったが、1792年からは4年に1度となった。長崎奉行所の役人ほか、
オランダ語通詞も同行し、約60人が長崎街道、西国街道、東海道を通って3ヶ月かけて江戸に出向いた。
ケンペルの江戸参府という記録が岩波文庫から出版されている。思えば、自分たちも東京から長崎までを踏破したことになる。



長崎奉行の1年を映画にして館内で上映していた。主演は風間杜夫。



長崎歴史文化博物館から出島に移動、そこで目にしたものは砂糖の麻袋。出島で砂糖が荷揚げされ、長崎でカステラが生まれ、
長崎街道を通ってさまざまな砂糖菓子や食品が生まれたわけである。そういや大村で食べた御膳のお寿司は大村寿司だったみたい。



左は右のオランダ船から長崎港内に落ちた大砲を引き揚げたもの。VOC(オランダ東インド会社)の刻印が見える。



2階のオランダ商館の応接間、赤ワインを並べている。おそらくポルトワイン。



シーボルトの「日本」より。左は兵庫県高砂市にある石の宝殿。私は行ったことはないが、JRの駅名にもなっている。



1箱約200本入りで重さは60キロ、日本の銅はヨーロッパでコインや大砲の原料になった。箱に住友とあるから別子銅山からか




オランダ人は狭い出島から出ることは禁じられていた、また日本人も出島に出入りすることはできなかったが、遊女だけは
出入りすることができた。ここに描かれている紅毛人は、ほんまに彼らの本性が現れていて興味深い。なにせ江戸幕府は商館員の
妻帯同行を禁じていたので自然と欲望が生まれてくるわけである。遊女と商館長や商館員との間には、子供が生まれている。



午前中はほんまに歴史の勉強でした。出島からすぐの中華街で、定番のちゃんぽんをいただくことにします。やっぱり美味しい。



グラバー園へ行く途中、飲食店の前に、長崎特有の尾曲り猫がいた。猫調教師を自称するI君が背後から掴むと
ものすごく嫌がっていた。あわてて窓から店内に逃げていた。



おみやげ屋が建ち並ぶ坂を登ると、グラバー園にたどり着く。



左は確か、リンガー邸。ちゃんぽんのリンガーハットはここに住んでいた英国人実業家フレデリック・リンガー(茶の貿易商と
してグラバー商会で勤務)にちなんでいる。右は、明治時代に極東一の豪華ホテルといわれた長崎ホテル(1898〜1908年)。
長崎ホテルは、リンガーらが長崎港を望む外国人居留地で開業。赤れんが造りの3階建てで、火災報知機など館内に電気を使い、
五十数室の全客室に電話を備え付けていた。日露戦争後に貿易拠点が横浜や神戸に移り、閉館した。
2013年に改装工事中の奈良ホテルで長崎ホテルの金銀のナイフやフォークなど約1600点が発見される。長崎ホテルの会食用
の食器120人分が閉館する数年前から競売にかけられ、同じイニシャルの奈良ホテルが購入したとのことです。



長崎港に面する松が枝町47(現住所)にあった借地人のイギリス人宅にあった石柱にフリーメーソンのコンパスが刻まれている。



あいにくグラバー邸が2019年1月から2021年3月まで耐震補強工事に入り、中に入ることができない。
この12月上旬のニュースから、三菱重工業が、国内最大級の長崎造船所の香焼工場を、造船大手の大島造船所に売却する方向で
検討しているそうです。香焼工場はここの造船所ではなく、ここから車で南へ30分ほどのところにある。



長崎の街を歩いていると、べっ甲の工芸品を売る店を見かける。細工技術は中国からもたらされ、秦の始皇帝の王冠の一部に使われ
ていたとか、遣隋使から帰国した小野妹子が持ち帰った皇室への献上品にべっ甲の工芸品があったとのことです。
もともとは中国の技術がポルトガルにもたらされ、ポルトガル人の来航により17世紀前半に長崎に伝えられた。
「タイマイ」というウミガメの甲羅を加工して作られる。ワシントン条約によってタイマイの商業取引は原則禁止されている。
業者の多くは禁止前に原料在庫を確保していたり端材を有効利用するなどで対応している。右は大浦天主堂での花嫁。



ここからは単独行動。絵画展で知り合いになった長崎で駅伝の事業団に所属していたという方が眼鏡橋近くの
「まちぶら案内所もてなしや」に勤めていたとのことで、そこに行ってみることにした。




オランダと貿易していたころ、貿易船は船のネズミ駆除のために猫を飼っていて、その猫が長崎で下船して繁殖したそうです。
しっぽの曲がった猫(かぎしっぽ)を尾曲り猫といって、幸せをひっかけてくるしっぽを持った幸運を招く猫として
大事にされているそうです。ここのお店はグラバー園も経営していると聞きました。



日本で最初の石造アーチ橋です。切り石をアーチ型に組む形式で中国の渡来僧・黙子如定によって伝えられた技術である。
この技術は九州各地に伝えられ、諫早市の眼鏡橋、熊本県の通潤橋などもそうです。



ここ加加阿伝来所も推薦のお店だったので行ってみた。彼杵茶のチョコ(@270円)は高いけど絶品でした。



岩永梅壽軒の前をたまたま通ったけど、1日限定20本のカステラは売り切れてました。さてもう帰ることにします。



本当に天気が良く、窓から関門海峡が見えた。思えば国道2号の海底トンネルを歩いて九州に渡り長崎街道を歩きはじめたなぁ。
神戸まで1時間、歩くと、約24日もかかったのに。神戸空港でピアノを弾こうにも緊張してまともに弾けずに帰る。おわり。




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