11 藤枝から静岡駅(府中)まで
11 藤枝から静岡駅(府中)まで





2016年11月5日(土)晴れ。今回も新大阪駅6時23分発のぞみ100号で、名古屋駅乗換えで静岡駅に8時10分に到着。



子供のころにお世話になったタミヤは静岡市に本社がある。静岡駅から東海道線で、藤枝駅まで戻る。





藤枝駅から北へ15分のところに旧東海道がある。午前9時頃から歩き始める。



松並木といえば、東海道だなあ。



藤枝市の木は、松の木、花は藤、鳥は鶯。



主要街道の一里毎に里程標を置くようになったのは、織田信長の時代に始まるという。徳川家康は子の秀忠に日本橋
を起点に東海道に一里塚を築かせた。この志太一里塚は江戸から約200キロで50里目に当たる。



ここが瀬戸川。江戸時代には橋が架けられず、川越しが行われた。越すに越されぬ大井川に比べて、瀬戸川は川幅も狭く
水深も浅いので、徒歩で渡っていた。川越し人足15人が常備され、参勤交代のときには、付近の村々から助郷人足が動員された。



ここは正定寺。ここのクロマツは「本願の松」と呼ばれ、傘形に枝張りした美しい姿に整えられている。
1730年ごろに植えられたものと伝えられている。



広重の藤枝宿は、上伝馬の問屋場跡です。ここで次の宿までの旅人や荷物を運ぶ人馬や飛脚を揃えました。



右は旧東海道の南側にある大慶寺の樹齢700年の「久遠の松」である。



藤枝といえば、サッカー、最中もサッカーボール。今日は奇数月の第一土曜日に開催される白子商店街の100円笑店街の日。
といっても、寂れているなあ。白子という地名は伊勢の白子の浜が由来。本能寺の変の直後に家康が堺から伊賀越えして、白子の浜
でそこの住民の小川孫三が船を仕立てて、家康一行を三河まで送り届けた功績により、孫三はこの地に住居を得て、税も免除されたという。



商店街を抜けて、県道381号から208号線へと進む。



左は須賀神社の楠。樹齢500年で旧東海道の脇にあって、古くから往来する人々を見守ってきた御神木。近くには「東海道中膝栗毛」
などにも名所として登場する鐙ケ淵などの名所もある。右は、鬼島の建場。東海道中膝栗毛に『ここは宿場間のお休み処、茶屋女「
お茶まいる、サア、お休みなさいマシ」と勧められるまま、昼間からイッパイ昨日の鮪の肴、この酒半分水だ、ペッペッ。ブツブツ
言いながら、鐙ケ淵にさしかかる。」かつてここには、葉梨川の本流が下の公園あたりで大きく曲がり、深い溝をなしていた。川の大きな
曲折が馬の鐙に似ているところから「鐙ヶ淵」と呼ばれていた。



これが鐙ケ淵ゆかりの葉梨川に架かる八幡橋。右はいかにも街道を思わせるカーブです。



左は、江戸から49里の鬼島一里塚。再び県道381号線に。



東京まで197キロの道標があるということは、県道381号線が旧国道1号線のようである。



前方の陸橋を上って、真っすぐに北北東方向へ。



「是より東、巌村領」の木杭あり。この杭は1735年から明治維新までの135年間、横内村が岩村藩領であったことを
再現したもの。岩村藩は美濃国岩村城を居城としていた。駿河国に飛地の領地があり。ここ横内村に陣屋を置いていた。





前方の高架が国道1号線。208号を北東へ。



岡部宿の西口に到着しました。戦国時代末、岡部は今川家の重臣岡部氏の本拠地であった。



右の旧街道を行きます。



旧街道は車の往来がほとんど無いので、猫もゆったりと歩いている。



左は「小野小町の姿見の橋」。小野小町は絶世の美女で歌人でもあった。晩年に東国へ下る途中この岡部宿に泊まったという。
小町はこの橋の上に立ち止まって、夕陽に映える西山の景色に見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには長旅に
疲れ果てた自分の姿が映っていた。そして過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだという。
ほどなく、岡部宿本陣跡に到着。11時20分。



広大な建物があったのでしょうね。右は、本陣に隣接している大旅籠柏屋の建物である。
岡部宿は当時難所と言われていた東の宇津ノ谷峠と西の大井川を控えた土地柄から休憩や川留めには大いに賑わったそう。
本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠27軒



右は昭和30年代くらいの柏屋の風景でしょうか。



旅籠の玄関先は、お決まりのたらいでの足洗いです。



平成12年より一般公開が始まり、1階の見学は無料、2階は有料となっています。時間が無いので割愛しました。
母屋の延べ床面積は100坪(331?)、敷地面積は7,750?。



さてこれより宇津ノ谷へ向かいます。宇津ノ谷峠は藤枝市と静岡市を分ける峠である。



東海道宇津ノ谷峠越えは中世末期に豊臣秀吉よって整備された古道。天正18年(1590年)、小田原攻めの際に
大軍の行軍のために道の幅員を拡幅整備したとされている。



宇津ノ谷峠越えは、道の駅を突っ切って行くと良いと、岡部の観光案内所で教えてもらった。



もうお昼時で少し腹が減ったので、アイスモナカを食べた。今日の昼食は丸子宿のとろろ汁と決まっている。
ここらへんはやはり、山芋が名産なようで、これ1本の価格は2,200円となっていました。



右の写真は、右へ行くとつたの細道(平安、鎌倉、室町期にかけて東西を行き交う主要道路。この道が有名になったのは
伊勢物語に登場してからで、「駿河なる宇津の山邊のうつつにも 夢にも人に逢わぬなりけり」(在原業平)の歌、
左へ行くと「明治の道・旧東海道」となり、左へ進みます。



陸橋で国道1号線を横断。



峠道の雰囲気が出てきました。



昔の絵図がありました。難所であったことがわかります。



真っすぐに行くと(赤線)、明治のトンネルへ、青い線の方は、旧東海道。ここは真っすぐに行きます。



ここらで、広重の岡部宿のポイントとします。



明治9年、宇津ノ谷峠に初めて出来たトンネル。木枠で岩壁を隠した日本初の有料トンネルであったが、照明用のカンテラ
の火による失火で岩壁が崩落、その後明治37年、県の事業によりレンガで固めた現在の形のトンネルになった。



長さ230m。中央が市境で、北側が静岡市になる。



明治のトンネルを抜けると、宇津ノ谷の集落があった。



江戸時代には間宿であった。当時の面影を感じられ、絵になる風景である。



天正18年(1590年)秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、この宇津ノ谷に休息した。その際、ここの家の主が、
馬の沓を献上し、また戦陣の勝利を示すような縁起のよい話をしたので、帰りに立ち寄って与えたのが、この家に所蔵
されている羽織である。後に家康もこの羽織を見て、記念に茶碗を与えたという。



橋を渡ったところで、小さな集落は終わり。今から450年前、この辺りは十団子の店が並び繁盛していたという。



さて、次は丸子宿です。



国道1号線に合流。



またも道の駅があった。国道1号線を南に渡って、旧道へ。



もう時刻は午後1時30分近く、頭の中は丸子宿のとろろ汁のことばかり。



ここが日本紅茶発祥の地。明治時代、旧幕臣多田元吉は徳川慶喜に従って駿府にやってきて丸子に所領をもらう。
ここで紅茶を栽培したことが明治政府の目に留まり、政府に招かれてインドのアッサム種の茶樹を持ち帰り、栽培を行った。
二六茶庵では、紅茶やケーキを味わうことができる。



旧道はラブホテル街になり、街道風情がありません。



ようやく丸子宿に到着。「まりこ」と読みます。



夢にまで見た慶長元年(1596年)創業丁子屋のとろろ汁であったが、この日はなんと東海道シンポジウムがあって
貸切りとなっており、無念であった。



しかし、隣に一松園というとろろ汁屋さんがあり、ここで頂くことに。丁子屋が休みなので、大繁盛。



1,650円の山里定食にしました。時刻は午後2時過ぎで、もう2回転くらいしているのか、しばらくして
席に案内していただいた。注文してからすぐに提供され、とろろ汁を食べる。ご飯には麦が入っていました。



広重の丸子宿は丁子屋の前で。山の中にあるイメージであったが、住宅街から少し離れたぐらいで交通量が多い。
丁子屋の茅葺き屋根の建物は昭和になってから民家を移築して入口部分に建てたものである。



さて、少し拍子抜けではあるが、まあ食べれて良かったとし、府中宿へ向かう。



昔は丸子宿からずっと松並木が続いていたそうだ。この辺りは「大曲」と呼ばれ、戦後までは人家も明かりもなく、
夜になると、オバケや追剥ぎが出没すると噂されるほど寂しい所であったそうだ。



都会の様相となってきた。



国道1号線の北側の旧道を進みます。





手越原から、安部川の近くまで来ました。



安部川から富士山がよく見えました。



安部川の東岸を広重の府中宿としました。



安倍川を渡ったところに安倍川餅の店が2軒あった。一般的にきな粉餅のことを安部川餅というが、由来は安部川の渡し口
にあった茶屋で出されたからで、今ではあんころ餅や大根おろしを絡めたからみ餅もある。残念ながら、腹一杯で通過。



左は安部川の義夫の碑である。1738年初秋の頃、紀州の漁夫が仲間と貯めた金150両の大金を持って、安部川を渡ろうと
川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いために自分で川を渡った。しかし、着物を脱ぐ際に大切な財布を落としてしまったのである。
たまたまその近くにいた人夫(喜兵衛)が財布を拾い、旅人のあとを追い、宇津の谷峠で引き返してくる旅人に出会って、財布を渡した。
旅人を喜んで、礼金を払おうとしたが、「拾った物を落とし主に返すのは当たり前の事だ。」と言って、喜兵衛はどうしても
受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。そこで奉行所が喜兵衛を呼び出し、渡そうとしたが受けとらないので、その金を
旅人に返し、代わりに奉行所から褒美の金を喜兵衛に渡したのである。
右は、由井正雪の墓の跡。1651年、三代将軍家光の死後、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、由井は浪人を集めて挙兵し
駿府城を占拠しようという無謀な計画が事前に発覚して、府中宿の旅籠で奉行所の捕り手に囲まれて自害。
大名取り潰しによる浪人の増加が社会不安に結びついていることが事件の背景にあった。
総髪(ロンゲ)のイメージが強いが、本当だろうか。



静岡の中心部に近づいてきました。



今日の目的地である駿府城に到着。午後4時20分。
江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、大御所となって江戸から駿府に隠居した。



場内で大道芸ワールドカップイン静岡という大きなイベントが行われていて、えらい混雑していました。



日没が早く、静岡駅に向かいます。



地下街でも、大道芸や静岡茶のPRで賑わっていました。



実は静岡駅近くのホテルはすべて満室。といってもなぜか東横インとかのチェーン店のビジネスホテルも無いのだ。
大きなイベントがあれば、半年前ぐらいから予約が埋まる。やむなく東海道線で焼津駅まで戻る。



ホテルは駅から徒歩3〜5分程度にあるシーラック。5千円程度で安いが、設備等は充実していました。大満足。



毎晩、飲みに行っている同行のI君は居酒屋探しでは目利きがあるようだ。浜近くのやまちゃんに突撃。



まずはサッポロの静岡ビールで乾杯、そして次は日本酒、私は島田の地酒である「おんな泣かせ」を選んだ。飲みやすい。



料理も最高。1人前の舟盛りなんて初めてだ。なんとか貝のバター焼きも美味。



桜えびのかき揚げはものすごいボリューム。これは明日の楽しみにしておこう。



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