12 静岡駅(府中)から蒲原駅まで
12 静岡駅(府中)から蒲原駅まで





2016年11月6日(日)晴れ。6時30分から朝食。



焼きたてパンに、サラダ、卵、さらにはカレーライスまで食べてしまう。



ギリシャ人の小泉八雲は、焼津の夏の海をこよなく愛し、生涯で6回も夏をここ焼津で過ごしたという。
さて、7時20分ごろの東海道線に乗り、静岡駅まで向かう。





7時40分より、静岡駅前からスタートです。伝馬町通りという名前はいかにも旧東海道沿いらしくて良い。



酒屋さんのビックリオブジェ。よく見ると外人。春日1丁目の交差点で国道1号線を南に向かって横断します。



そして東海道新幹線、東海道線の下をくぐって、線路の南側に出て、東へ向かいます。



府中と江尻までの距離は11.4キロで、曲金という間の宿があったんですね。しかし何の痕跡もありません。
再び、JRのガードを北へくぐります。



国道1号線沿いをしばらく東へ歩くことになります。



静岡鉄道の柚木駅です。今日も快晴で、前方に富士山がよく見えます。



東京まであと179キロ。しばらくして、北側の旧道へ。



静岡鐡道(略称:静鉄)は旧静岡市の安西地区に集積する製茶問屋から清水港へ茶を輸送する目的(当時は米国への茶の輸出が
盛んであった)で1906年に設立されたという。路線は現在、新静岡から新清水間11.0kmを結ぶ静岡清水線のみである。
長沼駅あたりまで来ると、線路の北側にバンダイの工場が現れた。バンダイはもともと「萬代屋」として浅草にて創業。



長沼一里塚が現れた。国道1号線長沼の交差点で合流、少し1号線を東へ。



古庄の交差点のところで、旧道へ入る。古庄も間の宿なのか。



南へまたもJRの車両基地の下の地下道を行く。



車も通るので危険。みんな曲がる手前でクラクションを鳴らしている。右の高架を走る電車は静鉄。



旧東海道記念碑には「旧東海道は国道1号線が整備されたことから、交通量が減り、昭和37年国鉄操車場の建設により、栗原の
西側が分断され、さらに区画整理による新しい町づくりが行われたことから、栗原地区内の旧東海道もその姿を消すことになった。」



静鉄の県総合運動場駅ですが、たまにプロ野球が開催されるあの草薙球場がありました。



東名高速道路の高架をくぐります。



JR草薙駅までやってきました。草薙剣伝説の地で、かつて剣を奉られたとされる草薙神社(祭神:日本武尊)がある。





清水銀行の駐車場敷地に草薙一里塚がありました。江戸より43里(170キロ)の塚です。昔は榎木の大木があり、その
木陰で休息した旅人たちが、「府中まで二里半、あと一息だ。」と道中合羽に三度笠、振分け荷物を肩に旅だった姿が偲ばれる。



ここで県道407号線より、旧道に入って、東海道線を北へ横断。



清水港へ向かう清水道との分岐点である追分まで来ました。清水まではもうちょっと。清水といえば・・・



都田一家諸精霊供養塔があった。清水の次郎長の子分であった森の石松は次郎長に命じられて、讃岐の金毘羅さんに代参に行った
帰りに、金の貸し借りが原因で吉兵衛に殺されてしまった。1861年、次郎長は恨みを晴らすため、ここ追分で吉兵衛を討った
わけで、その吉兵衛を弔う人がいないのを地元の人が憐れんで供養塔をここに建てたという。
右は、東海道名物の追分羊かんである。参勤交代の大名や旅人に親しまれていたそうだが、今日は休業。



左は江尻宿木戸跡(西の端)の道標、右は巴川に架かる稚児橋。カッパ伝説がある。



旧東海道は、ここ魚町の交差点で南に折れます。



この通りには本陣・脇本陣が各3軒、旅籠50軒がたち並んでいたそうだが、その面影もなく、商店街はシャッター街になって
寂れている。右の写真、旧東海道はここで東へ折れる(赤い線)が、清水港へ行くために、真っすぐ南下する(青い線)。



広重の江尻宿(三保湊望)はここ清水港とした。



はごろも缶詰シーチキンで有名なはごろもフーズの本社は清水港にある。また河岸の市があり、ちょっと覗いてみた。



食事をするなら、絶対ここがお薦め、しかしまだ11時前なのでやむおえず通過する。



清水駅まではすぐ。駅周辺の整備工事が進んでいた。清水といえば清水エスパルス。しかし2016年はJ2リーグに低迷している。



ちびまる子ちゃんの作者、さくらももこは清水で少女時代を過ごした。



三保の松原も富士山世界文化遺産に登録されたそうだ。



さて再び、清水駅北より旧東海道を歩きます。懐かしいカローラレビンがあった。





ほそいの松原。元禄16年の検地によると全長約360m、松の本数206本、この松原に「松原せんべい」を売った茶店
があったそうだ。しかし、太平洋戦争時に松根油を採るためにほとんどが伐採され、現在はその跡もない。ここで国道1号線に合流。



横砂城。市の水道施設になっていて立入禁止になっている。



ここでようやく、旧道へ入る。



東海道線を越えて、前方の国道1号線静清バイパスをくぐって、国道1号線へ。



ようやく興津宿に来た。正午になった。



興津坐漁荘は総理大臣を2度も務めた公家出身の西園寺公望の別荘である。ここの管理人の方より詳しく案内していただいた。



京都の西園寺の家(清風荘−京都大学所有〈非公開〉)と同種同等とのことで京都から大工を呼んで建築したとのこと。



当時は庭先はすぐ海で、2階から三保の松原を望むことができた。西園寺の祖先は藤原道長、もっと前は藤原鎌足につながる。
フランス留学希望が実現し、官費留学生として横浜港を出発し、アメリカ経由でフランス・パリに1870年に到着。
1875年、パリ大学法科(ソルボンヌ大学)に入学。留学中は下宿屋を使わず、ホテル住まい、作曲家のフランツ・リスト
とも交流があったという。これはその当時の写真。西園寺は私塾立命館を創設、現在の立命館大学の祖である。
なぜ、西園寺の別荘がここ興津にあるのかを管理人に尋ねると、「それがわからないのです。」とのことだった。



さあ急ごう。次は興津の見どころとしてはずせない奈良時代創建の清見寺(せいけんじ)。寺としての基礎を固めたが足利尊氏。
山門の内側をJR東海道線が通っており、線路の上に架かった橋を通って境内へ。



清見寺は慶長の役以来断絶していた李氏朝鮮との国交政策である朝鮮通信使の休憩場所になっていたという。



ここは徳川家康が今川家の人質だった幼少時代に今川義元の軍師であった太原雪斎に学問を学んだところ。
時間がないので、残念ながら割愛した。



左は宮様まんじゅうの潮屋。明治天皇の皇女2人が大のお気に入りだったことから、興津の名物になったという。



時刻は午後1時。腹が減っていた。興津駅近くで桜エビを食べることができる食堂がガイドブックに載っていたはず
なのだが、見当たらない。仕方なく、サークルKで、アイスカフェとドーナツで済ます。



さあ、先を急ごう。



興津川のところを広重の興津宿のポイントとした。



さて次は薩垂峠へ向かう。右の地図の中道を歩くことにする。



東海道線を渡る。



大した山道でもなさそうだ。



11月初旬、早生ミカンが実っていました。「みかんと海」というのは絵になる風景ですね。



墓場を通り抜けて、階段を登っていくと・・・



薩垂峠に到着。標高が107mだから、大した登りではない。実はここに道が開かれたのは1655年の朝鮮通信使を
迎えたときで、それまでの東海道は崖下の海岸を波が寄せる合間をみて岩伝いに駆け抜ける難所であったという。
この道は大名行列も通ったので道幅は4m以上あった。



薩垂山は京都と鎌倉を結ぶ重要な戦略地点で古戦場となっている。1351年観応の騒乱で足利尊氏が弟の直義の大軍を
撃破。直義の本拠地の鎌倉を攻め落とした。また1568年、武田信玄の駿河侵攻の際、今川氏真(義元の子)がこの山
で迎えたが敗退した。その翌年の春は今川氏を救援のため出兵した小田原の北条氏と武田軍が3か月余りも対陣し、
決定的な戦果はなく、武田軍が撤退した。眼下には国道1号と東名高速が立体交差するダイナミックな風景が。



広重の由井宿は、当然ここ。富士山を望む絶景である。



おみやげに早生みかんを買って帰りました。



急斜面のみかんを収穫するモノレールは、「モノカー」というそうです。



さあ由比に向かって下山。



峠から下った所は倉沢という間宿。ここに一里塚の跡があった。



東征軍参謀の西郷隆盛を駿河で説得した江戸城無血開城の立役者、山岡鉄舟ゆかりの望嶽亭(幕臣精鋭隊長山岡鉄舟が官軍に
追われた際に、望嶽亭の蔵屋敷で漁師に変装、隠し階段より脱出し、当時最新式フランス製十連発のピストルを残していった)がある。
望嶽亭は、茶屋(藤屋)で、磯料理、あわび、さざえのつぼ焼きを名物としていた。右は脇本陣柏屋である。



当時を偲ばせる街並みである。



右はさくらえびを食べることができる倉沢屋であるが、まだ3時なので先を急ぐ。



由比宿に入ったようです。右は江戸〜大正時代までのあかりを展示している東海道あかりの博物館。



東海道名主の館・小池邸。名主は年貢の取立て、管理、戸籍事務、他村、領主との折衝等村政全般を扱い、村役人の中で
最も重要な役割を担っていた。この建物は明治時代建立であるが、江戸時代の造りの面影を残している。





寺尾の集落を抜けて、旧道は県道の南側につながる。



桜エビ・焼きのりの店が出てきた。



午後3時13分、由比駅を通過。



由比駅前からなんと、由比桜えび通りになっています。



頭の中が桜えび一色になってきた。食べることができるのか。



「東海道中膝栗毛」にも登場する古くから伝わるお餅らしいです。由比川のほとりには名物「たまご餅」と染め抜いた旗を
軒に掲げた茶店が数軒あり、「お入りなさいやァせ。名物さとうもちヲあがりやァせ。 お休みなさいやァせ。」
呼びたつる女の声はかみそりや さてそこは髪由井の宿とたまご餅を商いした茶店のことが書かれている。
由比川を渡る。



由比宿の本陣跡に到着。屋敷の広さは1,300坪。明治初年に解体された。



ここは公園になっており、由比宿交流館や東海道広重美術館などがあり、楽しみにしていた美術館を見学します。



昨日行った丸子宿のとろろ汁屋や、さきほどの薩垂峠の絵が、現代風にアレンジされています。
ここの見どころは、広重の53次の絵の別バージョンが見れることです。



さてわれわれは、この美術館の北にある「桜えび茶屋(由比桜えび館内)」に行ってしまったため、由比正雪の生家と
伝えられている紺屋(染物屋)を見逃してしまった。正雪は楠木流の兵所を学んだ江戸初期の兵学者。代々紺屋を営む家
に生まれたが家業は継がず、楠木流軍学を教え名声を上げた。




「なんだこの野郎」という感じで見られたが、野良ちゃんではなさそうだ。



時刻は午後4時。確か4時半まで営業しているはずなんだが、残念ながら閉まっており、桜えびを食べ損ないました。
名物を食べるタイミングは難しい。気を取り直して、蒲原へ向かう。前方は東名高速。



午後4時27分、JR蒲原駅に到着。今日はここで終わり。



静岡駅まで戻ります。静岡駅のアスティ静岡東館にある「三久」で新幹線を待つ間、反省会をする。



昨夜に続き、静岡ビールは旨い。静岡おでん初体験。違いは食べる前にかつお節の粉を振りかけたくらいかな。



静岡で一番旨いとの評判の「静岡割り(緑茶チューハイ」は、なんとも表現できない味でした。
ついに姿を現したか、桜えび! 生桜えび(ここでは解凍したもの)は、当然初体験。む、む、む、味がしない。ほとんど醤油の味。



サクラエビ漁の歴史は浅く、1894年(明治27年)に由比の漁師が、アジの網引き漁をしていたときに網が深く潜ってしまい、
そのとき偶然にも大量のサクラエビが捕れたことが始まりとされている。日本では駿河湾および近接の東京湾・相模灘に分布するが、
漁獲対象となっているのは駿河湾のみである。



18時10分発のひかりに乗るが日曜日の夕方のせいか満席。次の浜松で何とか座れた。



静岡みやげ。次回は2017年3月かな。




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