13 蒲原駅から沼津宿まで
13 蒲原駅から沼津宿まで





2017年4月15日(土)晴れ。実に、5か月ぶりの東海道ウォークである。3月末に予定していたが、季節
はずれの降雪等の悪天候で、順延。早朝にもかかわらず、新大阪駅はたいへん賑わっていた。



新大阪駅発6時27分、ひかり506号に乗る。これだと静岡まで乗換えなしで行ける。朝ごはんは、吉野家の牛丼を買い
たかったのだが、早朝まだ空いておらず、マクドナルドのビック・ブレックファーストセットにする。容器が大きく、期待
していたのだが、ハンバーガーを分解したものに過ぎず、大したことない。500円だから文句は言えないか。



8時31分に静岡駅着、東海道線に乗り換え、9時に蒲原駅に到着。さて歩きますか。





前回は桜えびに取り憑かれ、結局本場の由比・蒲原で食べることができず、静岡駅の居酒屋で解凍の生桜エビやら茹で桜エビ
を食べたが、味覚・嗅覚が鈍感な私は、いまいちその良さがわからなかった。やっぱりかき揚げなんだろうなあ。



今日は沼津まで、道路標識に28キロとある。遠いなあ。



蒲原宿西木戸を左(北)へ入ると、昔は料理屋だったと思われる古い家屋に目を奪われた。



広重の蒲原宿の絵の前に、猫が佇んでいる。今日は幸先がいいのか。



志田邸は江戸時代から続く味噌や醤油の商家。私はここで刺身醤油を買った。



旧五十嵐歯科医院。大正時代に町家建築として建てられたが、洋風に改築された。蒲原町が土地を購入し、建物は五十嵐氏
から寄付を受ける。現在は静岡市の文化財課が管理している。ここは静岡市清水区蒲原で、蒲原町はH18年に静岡市に編入。



右は蒲原宿の西本陣跡。ここより100m東には東本陣跡もあった。本陣の当主は苗字帯刀を許されていた。



雪景色ではないが、ここを蒲原宿の地点とする。



右は日本軽金属の水力発電の放水路。純度99.99%のアルミニウムを生産する蒲原製造所の工場群(JR東海道線の南側)を
動かす電力の大部分は、自家用水力発電所から供給されるとのことだ。蒲原製造所が、。アルミニウムは、鉱物のボーキサイト
を水酸化ナトリウムで処理し、アルミナを取り出した後、氷晶石とともに溶融し電気分解を行う。
したがって、アルミニウムを作るには大量の電力が消費されることから「電気の缶詰」と呼ばれることもある。



今川義元が桶狭間の戦いで戦死すると、今川氏の所領は武田氏と北条氏とで奪い合う形となり、北条氏康から蒲原城の守備を命じら
れた新三郎は武田信玄との戦いで破れ、常楽寺に逃れ、切腹する。常楽寺はこの戦いで炎上し、後この跡地に新三郎の墓ができた。



この蒲原の一里塚は、1699年の大津波で流出して、宿の移転とともにここに移されたものだそうです。



北上し、坂を登っていく、「この峠道は1843年に普請された」と道沿いの民家の説明板に書いてあった。
坂を登りきったところには、東名高速道を跨ぐオーバーブリッジがあった。



橋を渡るとそこは、静岡市から富士市となる。



むかしむかし、その昔、京ができる前、駿河の国、富士郡に姫名郷というところに、竹取の翁と婆の老夫婦がいた。そこの
竹林の竹から、光り輝くかぐや姫が・・・のち国司から求婚されるも、私は富士山の仙女なので、富士山に戻らなければ
ならないとこの地を去る。うーん、月ではなかったのか?



左は明治天皇の休憩場所の碑です。前方の黒い穴を目指す。



入ることができるのかなと思ったけれど、下り階段があって、新幹線の軌道の下を潜っていく。



間宿(あいのしゅく)岩淵には「栗の粉餅」を売る茶店が立ち並び名物となっていた。栗の粉餅は、柔らかい大福餅に栗の粉が
まぶしてある感じで,、かなり甘いらしいです。



ここらへんは野田山健康緑地公園ということで、ハイキングコースが整備されている。富士川中之郷も間宿だったのか。



右が、江戸時代から現存する岩淵一里塚である。この地は岩淵村と中之郷村の村境で、ここが「栗の粉餅」を売る茶店が
立ち並んでいた所だったそうである。ここは珍しく、道の両側に塚が残っている。



富士川を渡る船に乗る前に大名や公家などが休憩した小休本陣が、無料公開中ということで覗いてみた。



ここは常盤家住宅だった・・・女優常盤貴子の祖父の常盤稔は、元清水銀行頭取。常盤家住宅は渡船名主を務め、紀伊徳川家が
休憩のため利用した小休本陣であり、静岡県指定文化財である。



民家のオープンガーデンで藤棚の花が最盛期で綺麗でした。



富士川が見えてきた。道の駅富士川楽座は、ここから750m、徒歩13分とのことで行けないわけではない。




春ということで桜エビが河川敷一面に干してある風景を期待したが、まったく無い。それにも増して、
富士山がまったく見えないというのは非常に残念であった。



ここは富士川渡船場跡であり、また東海道屈指の急流である富士川の堤防工事の安全を祈願した水神社がある。
富士山道もここからつながっているらしく石碑もあった。西国から来た道者は富士川を渡ったあと、水神社の東方で
東海道を左に折れ、富士山本宮浅間大社や村山浅間神社に向かったといわれる。



時間は11時半。昼食を食べるには微妙な時間だが、この先、吉原まで2時間はかかるんじゃないかということで
「かつれつえん」という老舗っぽいトンカツ屋に入ることにした。



とんかつ定食(ロース)1100円、無茶苦茶うまい、近年まれにみる旨さ、肉質が最高。



右はJR富士駅と甲府駅を結ぶ身延線の柚木駅である。全線にわたり富士川の左岸(東側)を通る。



右の側道にはいる。



フジホワイトホテルは、豪農松永家の屋敷跡に建っている。その東となりは松永氏の菩提寺である金正寺。
民話「金正寺の猫」があり、境内には猫の石像がある。



右は、王子製紙富士工場である。1908年に操業開始、1960年代より古紙再生パルプ化を他社に先駆けてスタートさせ、
日本の中心部に位置していることから、原料集荷・製品配送に優れているという。JR富士駅にも近い。王子は三井系。



今度は、旧国道1号線県道396号線の北へ進む。



右のとおり安全を考えて、横断歩道を通るべきでしたが、中央分離帯の生垣が旧東海道のところで切れており、
真っすぐに突き進むことにする。(青い線)



間の宿である本市場(もといちば)に来たようです。左は鶴の茶屋があったところ、この地から富士山を見ると、残雪が、
鶴の舞に見えるということが名前の由来。右は静岡県総合庁舎で、間宿本市場の碑が建っていた。名物は白酒、葱雑炊。
白酒は、いわゆる中国のパイチュウではない。雛祭りにおいて祝いのために出される酒のことをいう。



左は、袂の賽神と呼ばれる。賽神は集落を守るため村の入口に祀られる道祖神。潤井川にかかる富安橋を渡る。



右に曲がって、すぐ396号線に合流する。



そして、県道22号線三島富士線の方へ。



ようやく吉原宿に到着した。午後1時30分。



この商店街が、吉原宿の中心で、本陣が2軒、脇本陣が4軒もありました。



左は、吉原宿で唯一宿場時代から続いている宿である鯛屋旅館吉原本宿。1階はそば屋になっている。
右は、フルーツゼリーで有名なお店・杉山フルーツです。→参照



うーん? ここは旧東海道吉原宿のはずが、英語とはどういうことなのか、急に別の世界に入り込んだようだ。



誘惑的な扉、この扉の奥には更なる別世界があるのだろうか、と思っていたら、何やらローカル線が東海道を横切っている。



岳南電車でした。吉原は東海道の宿場町であったが、東海道本線は町の近くを通らず、町外れに鈴川駅(現吉原駅)が設置
されただけであった。戦後になって、鈴川駅と吉原の中心部とを結ぶ鉄道として開業した。2013年(平成25年)3月までは
岳南鉄道によって運営されていたが、貨物輸送の廃止に伴う収益悪化を背景に、同年4月より岳南鉄道の鉄道部門が岳南電車
として分社化され、現在は静岡県富士市内の吉原駅と岳南江尾駅とを結ぶ岳南電車の鉄道路線となっている。



列車にはJatcoの丸い看板があるが・・・Japan Automatic Transmission Co.,Ltdの頭文字をとったもの。日産自動車グループの
自動車用変速機(CVT/AT)メーカーである。 富士市最大のプラント規模を有し、主な製品は自動車の変速機であり、納入先は日産
自動車のみならず三菱、スズキのほか、ゼネラルモーターズ(GM)、ルノー等にも供給される。
道理で、この周辺には英語の看板が溢れていたわけだ。



平家越え。治承4年(1180)、都から伊豆に流されていた源頼朝は、以仁王の平氏追討の令旨を受けて挙兵すると、
都から派遣された平氏軍と富士川を挟んで対峙しました。水鳥が一斉に河沼を飛び立つ音を源氏軍の夜襲と誤認して、
一太刀も交えず平氏軍が撤退したという伝説



うん、ヘルス東京という風俗店がぽつんと1軒のみ、ひっそり旧東海道沿いにあった。興味のある18歳以上の方は、
検索してみてください。



吉原の左富士。天気が良ければ、このようになっていたかな。右の写真は、左富士神社である。
左富士をグーグルマップで証明すると、以下のようになる。





ここが、広重の吉原宿です。



東海道新幹線の高架をくぐり、JR吉原駅方面に向かう。



名残りの松のみが、旧東海道の面影を残している。



沼川を渡る。なんか私が子供のころの昭和40〜50年代の工業地帯の風景だなあ、ここは。



JR東海道線まで南下してきました。ここにも製紙工場がありました。日本製紙富士工場です。鼻紙なら、スコッティ、
トイレ紙ならクリネックス、売り上げ高シェアでは、1位が先程の王子製紙28%、2位が日本製紙23%と断トツの2トップ。



日本製紙のところで東海道線の踏切を渡る。右は、見事な日本建築であったので撮ったもの。玄関の框には鯛の意匠が施されていた。



ビジネス旅館立場があった。昔、立場だったのか。楽天トラベルには「毘沙門前にあります料理旅館です。お仕事、工事関係の
お客様に大変喜ばれております。」ということで営業している。お客様の声がないのが残念。県道170号から、380号線に入る。
いずれも旧国道1号線である。沼津まであと14キロもある。現在午後3時だけど、まだ予定の半分しか来ていないことになる。





吉原と原の間の宿、柏原まで来た。右は、JR東田子ノ浦駅である。



ようやく沼津市に入った。




ここらへんは浅間神社という名前の神社が多い。主に富士山に対する信仰(富士信仰/浅間信仰)の神社ということである。
この狛犬には鮮やかな赤色が施されていた。



ここを、広重の原宿としました。残念ながら富士山は見えませんが。ここら辺は原っぱだったんでしょう。だから原宿なのか。
木曾義仲討伐のために上洛する源義経が大規模な馬揃えを行ったことで知られていた。



原宿の一里塚跡ですが、一応掲載しておきます。



ミニ開発の住宅街。位置指定道路と思われるが、"Interstate163 hara Speedlimit 5"と開発業者のアメリカ嗜好が窺われる。



白隠正宗は富士山の霊水で造ったお酒。しかし、吉原を出てから、工業地帯を歩き、狭い歩道の溝蓋の上を歩き続けている。
今回の歩行は、交通量も多く、特に後半はつらいものであった。



左は原宿の本陣跡である。渡邊家は阿野全成(頼朝の弟・義経の兄)の子孫であり、代々平左衛門を名乗って幕末に至っている。
原宿の草分けであり、広大な建物を持っていたので自然に大名・幕吏の宿舎となった。明治天皇も小休憩したとのこと。



原宿といえば白隠和尚であろう。「駿河に過ぎたるものが二つあり。富士のお山に原の白隠」と歌われ、臨済禅中興の祖と
仰がれる白隠禅師は1685年12月25日、三男二女の末っ子として生まれる。15歳の時、松陰寺の単嶺祖伝和尚を
師として自ら望んで出家し仏門に入る。19歳から32歳まで修行行脚で全国を巡り、33歳で松陰寺住職となり、84歳
で亡くなるまで松陰寺を中心に全国各地で真の禅宗の教えを広めた。毛筆の書画に優れ、達磨図や観音菩薩絵は有名。




ここが白隠和尚が修行し、住職となった松陰寺である。



大信根:禅の修行において、修行以前に心がけなければならないこと,それは「信・疑・勇」。信とは、大信根。信じるきること。



禅猫か、悠然と交通量の多い道路を横断していた。



左の写真は八幡神社であるが、信号の左あたりに「従是東」という黒い領界石がある。ここから東が沼津藩ということである。



午後6時、ようやく沼津のゴール近くに来た。



清水本陣跡、高田本陣跡の碑があるが、沼津の街は第二次大戦の空襲で焼き払われてしまい、古い建物は全く残っていない。



頭の中は、金目鯛の煮付け・・・いくらなんでもそれくらいはどこでも食べられるやろうなと思っていた。



沼津リバーサイドホテルの玄関前に三枚橋城外堀石垣があった。そこからすぐ北のところの旧東海道沿いが川廓通りとなっている。



三枚橋城は武田氏の、駿河における拠点の一つであった。三枚橋城は現在の沼津の駅南部にあり、本丸を二の丸、三の丸、外郭が狩野川に
面した東南部を除いて同心円上に囲む構造になっていた。天正10年(1582)に武田勝頼・信勝父子が天目山で自害し武田氏が滅亡すると、
同城は徳川氏に明け渡された。その後、後継者がないことを理由に慶長19年(1614)には廃城となった。
沼津城は1777年に、水野忠友が2万石で沼津に城地を与えられ、廃城後荒れていた三枚橋城の跡地に築城、以前の三枚橋城を利用して
築城された。三枚橋城と比べ規模は小さい(1/2)。



午後6時30分、今夜の宿、沼津グランドホテルにチェックイン。楽しみにしていた金目鯛の煮付けであるが、土曜日の夜ということで
人気の居酒屋は予約していないと入れないし、ふらっと入った居酒屋では金目鯛は無いと言われ、結局、チェーン店ぽい居酒屋に入るも
金目鯛を食べることができなかった。思い通りにはならないものである。





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